見出し画像

【レビュー】『チワワちゃん』不確かな存在

岡崎京子の短編コミック『チワワちゃん』では、チワワちゃんという空白をチワワちゃんの周囲にいた人々の証言によって埋めていく。
そして、その証言は食い違い、チワワちゃんの実像が微かにズレたまま、ラストを迎える。
チワワちゃん自体は確かに存在し、絵に描かれているはずなのに、チワワちゃんという存在が浮遊している。

それは、いつの時代にもつきまとう空虚な若者なんていうつまらない形象ではなく、人は誰もある人の実像など掴めない、という諦観に似た感触である。
そしてあれほど永遠だと思えたはずの青春は、呆気なく素っ気なく過ぎ去って行き、チワワちゃんの死をきっかけにふと終わりを実感する。
しかし、それでも誰かのどこかに記憶として刻もうとする意志が、ラストのミキの言葉から感じ取ってしまうのは、行き過ぎた思い入れかもしれない。

人の記憶は曖昧で、印象にはバイアスがかかっている。それに自分が思っていることを正確に伝えることも難しい。
誰も本当のチワワちゃんを描写することなんてできないし、そもそも本当のチワワちゃんなんて存在しえない。
それぞれがそれぞれの関係性の中で見てきたチワワちゃんがいるだけだし、それぞれの記憶の中にあるチワワちゃんはそのどれもが少しずつ違っているし、少しずつ同じだったりする。

死んでしまった人という絶対的な空白を埋めることができず、その周囲を右往左往することしかできない。中心に辿り着くことはない。
だとすれば、ある瞬間を共に生きた人間同士が、それぞれの偏った記憶の断片を掻き集めて記憶するぐらいしか、残された者にできることはない。

岡崎京子のコミックが孕んでいるほとんど暴発寸前で即物的な青春の煌めきと、その背後に佇む諦観と鬱屈、そしてその先の光景を、二宮健監督は見事な手腕で映像化してみせる。

躁状態の映像・演出・編集が繰り広げられていく本作にあって特筆すべきは、その映像的音楽的センスが常に持続し、「いわゆるMTV的な映像」と主にネガティブな意味合いで評されるような瞬間を一度たりとも創り出していない点にある。
これは驚くべきことだ。
この方向性、この角度から日本映画の新しい地平を見ることができた喜びは大きい。
そしてそれは、岡崎京子の漫画を映像化するにあたって最良のアプローチのように思える。

トップスピードで駆け抜けていく躁状態の青春が、煌びやかで鮮やかな彩色の映像で装飾され、大量のカットが積み重なっていく中で青春の鬱屈が不意に立ち上がる
常に既に不思議な後ろめたさが張り付いて離れない。
自分の存在を揺さぶるような不安定な感触は、物質主義的な享楽に耽ることで搔き消すことができず、むしろ肥大化していく。

岡崎京子は、そして二宮健はそんな心象風景、自意識のせめぎ合いを突き付けてくるのである。

二人の作家は、目に見える欲望に忠実で、現在進行形の今をとにかく楽しむ若者を突き放すことも、過剰に思い入れることもない。
終わるはずのない何かには、明確に刻まれた終わりがあったことに気付き、そこで自分と他者の存在の不安定さに戦慄する。
これは時代によってウイルス的に発生するものではなく、いつの時代も普遍的に横たわっているものであることを、二宮健監督は証明してみせたのである。

Text by 菊地陽介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?