見出し画像

No.62 聖人の「こだわらなさ」を知る

賢い人というものは、


たいてい権力者からの心付けとか、接待を受けようとせず、


”こびない態度”というものを貫こうとするものです。


それで出世の道が遠のき、


思いがけない嫌がらせを受けることもありますが、


清潔なイメージを保つことができます。


「あいつは金や権力に汚いやつだ」と罵られるよりも、


よほどましだと思っている人の生き方です。


しかし、いわゆる「聖人」と言われるレベルの人となると、


全然そういう態度ではないようです。


気にせず、受け取りますし、招かれます。


かの孔子もそうでした。


思うのですが、


本当にすばらしい人物は、なにもこだわらないのですね。


まるで鏡のように澄み切った心で、


どんなことも、どんな人もあるがままに受け入れてしまう。


正義感溢れる人と会うときには、


その正義をたのしみますし、


礼儀正しい人と会うときには、


その礼儀をたのしみますし、


相手が正義や礼儀がない人だったとしても、


たった今、正義や礼儀を身につけたというなら、


以前におかした罪や、無礼をとがめることもありません。


もちろん、「また悪さをするんじゃないか?」


「礼儀正しいのも今だけじゃないか?」と疑うこともしません。


つまり人をジャッジしないんです。


しかし、ここまでの態度の清らかな人物は、


よほどの心の持ち主だと思います。


私もこの境地まで達してみたいものです。



この長文で一番伝えたいことは「人をジャッジしない」というところだと思います。人間自分の価値観で物事を見極めてしまうのは当たり前で、全てを受け入れるだけというのはまずできないと思います。人を見て態度を変えたり、人によって自分の意見を変えたりするのは人を疑われる元です。そういう人になってしまうと、周りからの評価も悪くなるのは当然です。もしもその人が清い心の持ち主なら、周りの次に自分を自分で疑ってしまうようになるでしょう。やはり、人間的成長とは心の本質を見つめ直す事を積み重ねることによってできていくのではないかと思います。究極の悟りの域までいくには自分とどれだけ向き合えたか、その時間と努力が必須だと思います。


この記事が参加している募集

人としての考え方を増やしたい方に向けて私ができる事をお伝えできれば幸いです。行動するには考え方が必要になります。思考力を増やしていきたい方はみた方がいいかもしれません。