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アメリカ永住を実現させた心のブレーキを外す選択

僕はとても内向的な人間だ。学生時代は、内向的な奴は勇気がない弱虫、外交的で誰とでも簡単に打ち解けて、クラスの人気者になれる奴が勇気があると思っていた。勇気がない弱虫と人から見られるのが怖くて、ある部分では外交的な人間を演じていた。高校時代、自転車のブレーキに手をかけて乗っていると、友達から怖がりだとからかわれた。怖がりだと自覚し、怖がりな自分にコンプレックスを持っている。そんな人間は、自分が怖がりなことが人にバレてしまうことが、最も怖い。怖がりがバレてしまわないように強がる。友達にからかわれて以降、ブレーキに手をかけないでハンドルだけを持つように意識して自転車に乗った。ブレーキに手をかけないで自転車に乗れば勇敢に見えるだろうと、何とも愚かなカッコ悪い強がり方だ。

高校からの家へ帰る途中に長くて急な下り坂があった。しかも、下り坂を降りきった直後に道は90度に曲がる。この下り坂をブレーキに手をかけずに降りきるのが、僕の勇気ある行動の日課となった。誰も見ていなくてもだ。そんな愚かなことを続けていれば、いつか悲劇が起こる。ある日、日が暮れてから帰った時、暗くて道がよく見えず、バランスを崩して派手に自転車ごと転んだ。転倒し、手足をひどく擦りむいた。今振り返れば擦り傷くらいで済んでラッキーだったかもしれない。骨を折ったり、車に轢かれていても不思議ではなかった。ブレーキを外すには勇気がいる。ただ、何のリスクも考えずに、ただブレーキを外すのは、勇者ではなくて、ただのバカ者だった。

この高校時代の自転車のブレーキに手をかけないという行為は、早い思考によるものだった。リスクなど何も考えず、感情に任せて怖がりな自分がバレないようにと恐れての浅はかな判断だ。しかも、実際にはブレーキに手をかけていなくても、それだけで勇敢な人間になれる訳では全くない。

社会人になると遅い思考で大切な決断をする機会が多くなる。恥ずかしながら僕は臆病なくせに、それと同時に気が短くて怒りっぽいやっかいな性格だ。自分の思い通りにならないと、上司に対してさえ感情が表に出て好戦的になりがちだ。それでも、社会人になると、早い思考だけで感情に任せた選択ばかりはしていられないことは分かってくる。学生時代は、何だかんだ言っても、親や学校や社会に守られていた。早い思考で感情に任せた愚かな判断・行動をしても、殆どの場合、何とか守ってもらえる。社会に出たらそうは行かない。仕事が面白くないからと早々に会社を辞めてしまったり、上司と合わないからといって、上司に食って掛かったりしていたら、すぐ社会から放り出されてしまう。気が短くて怒りっぽい気質の僕でさえ、遅い思考で冷静に考えることが大切だと分かってくる。

社会に出た僕は、東京の製薬会社で新薬の研究・開発に従事するサイエンティストになっていた。僕の夢は、アメリカでサイエンティストとして働くことだった。ところが困ったことに僕は英語が話せなかった。英会話どころか、内向的な性格が災いして、日本語でさえ話すこと自体苦手だった。自分には語学の才能はないとコンプレックスを持っていた。サイエンティストとしてもコンプレックスを持っていた。大学時代は真面目に勉強もせず、90年代バブル末期のどさくさに紛れて製薬会社に入社した。回りには自分よりもずっと学歴が高く、しかも自分よりもずっと真面目に学生時代から研鑽を積んできた同期や同僚がたくさんいた。僕が所属していた研究所からは2~3年周期で1名の所員をアメリカに送り込んでいたが、研究所には当時約80名の所員がいた。早い思考では、僕の「アメリカ赴任者に選ばれてアメリカに行く」という夢は叶いっこない、とんでもなく遠いものに感じた。内向的な自分は、自分の心の内を他人に語るのは恥ずかしい。まして自分でも自信がない「アメリカに行く」という夢を語っても、「そんなの叶いっこないよ」と一笑されたらどうしようと思う。学生時代、自転車のブレーキを外すという愚かな行為は、早い思考で簡単にできた。でも、そんな早い思考では、心のブレーキは外せない。心のブレーキは、「アメリカに行く」という僕の夢を語り、行動に移すことを躊躇させ、夢を途方もなく遠いものに感じさせた。

そんな時、内向的な性格が遅い思考を行うことで功を奏する。内向的な自分は、自分の心の中に入って何かをイメージするのが好きだ。将来をイメージして、アメリカでサイエンティストなっている自分を日記のように書いてみた。今振り返ると何ともちっぽけなイメージだった。せっかくアメリカに渡ったのに日本にいる人たちと連絡を取り合っているだけの自分しかイメージできなかった。それでも当時の僕はアメリカで働けることをイメージしただけでワクワクした。イメージした将来の自分を日記のように書いて言語化すると、現実とのギャップがどんどんはっきりしてくる。今の自分に何が足りないかが明確になる。そして、そのギャップを細分化して埋めていけば、夢を実現させる確率を上げていくことができる。同時に自分の夢を実現させるための行動を妨げる、恐れや恥ずかしいという感情が、何ともくだらないもの、リスクでもなんでもないことに気づく。早い思考で外せなかった心のブレーキが、遅い思考で外せた。

僕は上司との半年ごとの面談時に、英語もろくに話せない頃から、希望勤務地、第1希望:アメリカ、第2希望:ヨーロッパと毎回書くようになっていた。もちろん、上司は所員80名の中からアメリカ派遣者を決める際に、熱烈にアメリカ派遣を希望している奴を候補にしたいと思うだろう。上司への熱烈なアピールは、夢の実現の確率を上げる戦略の一つだった。語学の才能がなくても、猛練習すれば10分間の英語のプレゼンだったら、さも英語が超上手い人のように見せることはできる。遅い思考で論理的に分析すれば、80分の1に過ぎなかったアメリカ赴任の確率を限りなく100%に近づけられる方法が無数に存在していることに気づいた。夢見てから10年以上の時間を要したが、37歳になった時、僕のアメリカ赴任の夢は実現した。

アメリカ赴任の夢が実現してから約2年後、日本の上司からあと1年で日本帰国との命令が下された。アメリカでの生活を謳歌していた僕は、帰国後に日本で働く自分がイメージできなかった。自分は日本に戻って日本で働くことを楽しめるのか? アメリカでの数年が最も充実していたと思いながら残りの人生を送るのか? 日本にいた時にアメリカで働いている自分をイメージして書いた日記がとんでもなくちっぽけなものになっていた。もっともっとアメリカで挑戦したい、サバイブしたいと僕の夢は膨らんでしまった。もう一度、心のブレーキを外す時が来た。夢を叶えてくれた会社や上司を裏切ってでも、自分の人生を生きたいと。

ここでも内向的な性格が遅い思考をすることが功を奏した。早い思考でパッと考えたら、日本でも転職活動をしたことのない英語にコンプレックスを持つ日本人がアメリカで転職活動をして永住を試みるなんて無茶なことだと思ってしまう。でも、遅い思考で冷静に考えれば、失うものは何もなかった。転職活動をとことんやって、だめだったら日本へ帰るだけだ。一番、恐ろしいことは、何も行動を起こさずに、日本へ帰った後に生涯悔やむことだ。2005年当時、まだ転職サイトは充実していなかったので、ありとあらゆる方法でアメリカのリクルーターを見つけ、メールや電話で転職先を探してもらった。アメリカで知り合ったアメリカ人の元同僚の人たちにも応援を頼んだ。日本から就労ビザで来ている一時赴任者を、わざわざアメリカで現地採用してくれるという都合のよい機会はそう簡単にはないと分かっていた。でも、何もやらずに後で後悔するより、できることだけはやりたい。そうしたら、失敗しても後で笑い飛ばせると思った。

そして奇跡が起こった。たまたま日系企業のアメリカ子会社が僕にピッタリのポジションを募集していた。その会社にとっては、日本の本社とコミュニケーションができる日本人の僕の方がアメリカ人より都合が良かった。さらに奇跡的なことに、以前に僕が1日だけ一緒に仕事をしたアメリカ人が、その会社に入っていた。しかも、僕の直属の上司となることになっていた。軌跡が重なって、僕の転職はあっという間にすんなり決まった。しかも、その会社は僕の永住権(グリーンカード)取得のスポンサーになってくれた。アメリカ永住が決まった瞬間だった。

アメリカ赴任の夢を叶えてくれた会社を去ることは、とてもしんどかった。上司や同僚を裏切るという罪悪感も感じた。でも、最終的には自分の人生を生きたいと心のブレーキを外す選択をした。

2003年にアメリカに赴任してから今年で20年となった。アメリカでの人生は、自分がイメージしていた以上に波乱万丈になった。転職は4回。その中には、レイオフや半分クビのような形で次の仕事が決まらないうちに会社を去ったこともあった。前の妻との離婚、今の妻との再婚も経験した。ニュージャージー⇒シカゴ⇒ニュージャージー⇒ボストン⇒カリフォルニア⇒ボストン と転々とした。もちろん嫌なこと、くじけたこともたくさんあった。でも、今でも「もし日本に帰っていたら?」の自分はイメージできない。内向的な自分は、今でも怖がりで弱虫だと思う。多くの場面で、遠慮してしまい、心のブレーキを外せず、後で悔しいと思うこともある。でも、最も譲れない自分の人生を生きたいということに対しては、心のブレーキを外して、アメリカに残って本当に良かった。



#あの選択をしたから

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