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MMTへの誤解を解く その9 財務省という茶番

** おわび **

本稿「その1」で、貨幣の歴史的な経緯について
お話しましたが、恥ずかしながら、
その内容は、まったく正確ではありませんでした。

たとえ、金貨・銀貨が使われた時代にあっても、
それらは、なんと「商品貨幣」ではなかった
というのが、MMTの見立てでした。

じゃあ、年貢米はどうだったんですか?
それこそ、現物資産でしょ?
という疑問は残りますが、

言われてみれば、
日本においても、明治初年から近年までの
国債発行残高(つまり借用書のこれまでの発行累計)の
調査統計が資料としてありますので、
昔から信用貨幣は存在していたことになります。
変だなと、感じてはおりました。

今後も、わかりやすい表現と、自由な視点の切り替えを
心がけたいと思いますが、

一方で、事実関係の正確さ、
定義に沿った用語の使用にも注意を払いたく思います。

勉強不足の戒めとして、
「その1」の記述はそのまま残しておきますが、
機会がありましたら、この件は改めて取り上げたいと
思います。

     *****

本題です。

物々交換というと、
とても原始的なイメージしかありませんが、

俯瞰して観れば、実は私たちは、普段から
そうは見えなくても、物々交換をやっているわけです。

といいますか、実は、一般庶民の経済活動は、
ほとんど、物々交換しかやっていないのですけれど、
お金の動きにばかり関心が向いてしまうと、
それが見えなくなりがちです。

ただし、物々交換といっても、
相手の顔が見える、一対一の素朴な交換ではなくて、
99.9999……% は、
与える相手と、もらう相手が違う、という
登場人物が自分を含めて三人以上いる
ネットワークのような物々交換です。

そして、ネットワークを交通整理する信号として、
通貨が、点灯したり消灯したりしているわけです。

信号は信号でも
「金額」という数値を伴った特殊な交通信号です。

通貨が信号として機能しているおかげで、
三人以上の複雑なネットワークが簡単に形成されて、
自由度の高い交換が可能です。

また、数値を伴った信号なので、
極めて細密な分割が可能な
物々交換が実現できてもいるわけです。

あ、ここで言う「物々交換」とは、
「物」と「物」の交換だけでなく、言うまでもなく、

 ・「物」と「サービス」
 ・「サービス」と「サービス」

の交換の意味も含まれます。念の為。
最近は、「サービス」と言わずに「ワークショップ」
と言ったりもするようですが。

確かに、交換をしているのだけれど、
「与える」相手と、「もらう」相手は、
ほとんどの場合、同じではないし、
しかも、
「与える」日時と、「もらう」日時も、
ほとんどの場合、同じではないので、
「自分は交換をしている」
という自覚は少ないと思います。

交換の現場として、なじみ深いのが
スーパーマーケットやコンビニなどのお店ですが、

お店のレジでお金を払う場面だけを
切り取って眺めると、交換ではなく、
ただ「買い物」をしているようにしか見えません。

だけど、レジで、あなたが払った通貨は、
どこで得たかと言えば、自分が働いて何かを産み出し、
産み出したものを誰かに与えた証(あかし)として
点灯した信号です。

どこかで何かを誰かに与えたから、
お店で買い物が出来るわけです。

ギブ・アンド・テイクです。

たとえ、交換の相手の顔は見えなくても。
いつの間にか、
ギブ・アンド・テイクを実践しているわけです。

「買い物」は、その現象の一部を切り取った風景です。

     *****

では、自分はいつの間に、
こんな交換経済に参加し始めたのかというと、
そのきっかけは、

自分が何かを産み出し始めたこと。
すなわち、社会に出て「勤労」を始めたことですね。

勤労によってこそ、
交換経済に参加することができる。
これが、今の世の交換経済の仕組みです。

勤労がなければ、
交換経済には参加できない仕組みです。

なんか、アタリマエのことを仰々しく、
くどくどと、お話していますが、
この事実は、ちゃんと押さえておきたいです。

〈なぜなら その1〉
「買い物」の風景だけを切り取って見てしまうと、
お店で、通貨と商品を等価交換したかのように
見えてしまい、
ネットワークの全体像が見えなくなるばかりか、
まるで、通貨に価値が宿っているように見えて、
商品貨幣論の観念にとどまってしまうからです。

通貨を「モノ」だと私たち庶民が錯覚するのは、
普段の「買い物」体験が原因なのではないでしょうか。

しかし、実は通貨とは、
「物やサービスを与えた証(あかし)」
「物やサービスをもらった証」
を明確にする、「信号」のようなものであると。

つまり通貨とは「モノ」ではなく「コト」であると。

だから、前回の「〇〇製粉」の小麦粉の仕入で言えば、
通帳の「100,000」という数字が、
まるで信号のように、簡単に私の通帳から消えて、
取引相手「〇〇製粉」の通帳に現れるのですね。

〈なぜなら その2〉
勤労こそが、社会の「富」をもたらしていることが、
これで明確になるからです。

「富」とは人々の勤労の結果、生まれるものである。

人々の勤労の結果、はじめて流通が起こり、
「通貨」という「信号」の点滅が開始する。

もしも、誰も勤労しない社会があるとすれば、
交換の対象となるものが産み出されません。
とすれば、「通貨」という「信号」も点滅しません。

もしも、誰も勤労しない社会があるとすれば、
たとえ目の前に、ゴージャスな金の延べ棒が
どんなにドッサリと多量に積んであっても、
衣食住に必要な物資は無いし、
交通・エネルギー・通信インフラも無いし、
医療も教育も文化も無い。
まるで砂漠のような、
不毛な状態が永遠に続くわけです。

     *****

MMTに詳しい方は、きっと
ここで「勤労」を持ち出したことを
不審に思うことでしょう。
MMTを語る時に「勤労」の概念は
ほぼ出てこないからです(※:本文末参照)。

しかし、

実は、「勤労」の概念こそ、MMTの理解を助ける
大切な補助線ではないかと思うのです。

「勤労価値」と言った方が適切かもしれません。

逆に言うと、

「勤労価値」の概念を持ち出さずに、
MMTの理論をまとめた方は、
天才ではないかと思うのです。

そもそも、
「富」の源泉たる「勤労」という営みを捨象したまま、
どうやって経済(経世済民)を語るのですか? 
経済とは、お金の流れ以前に、人の営みですよね?
こんなことは、
世界中のあらゆる生産の現場に立ってみれば
誰にでも分かることですよね。

机の上で、数学の定理をいじるかのように
MMTを純粋に学問として追究したい方にとっては、
邪道に感じるのかもしれませんが。

「勤労」と交換経済の関わりについては、
また回を改めて、お話ししたいと思います。

     *****

その「交換の証」たる通貨の発行を
民間で引き受けているのが、市中「銀行」だと、
前回お話をしました。

銀行については、「その2」でもご紹介した
三橋先生のレクチャー動画を参照いただきたいので、
ここでも、ご紹介しておきます。

銀行の由来について、銀行預金の由来について、
歴史から紐解いて
分かりやすく語ってくれています。

https://www.youtube.com/watch?v=CMLYpWlQp1E

この動画の勉強会に参加している国会議員の方々は、
たぶん、自民党の方々かと思われますが、
MMTに、党派性は考えられませんので、
支持政党に関係なく、安心してご覧いただければと。
(日本を壊したい政党は、たぶん
 MMTに近づこうとしないでしょうが)

ご覧いただければ、
国会議員の方々も、一般庶民も、
経済についての理解のレベルでは、
それほどの違いがないかも…、ということも、
感じられるかと思います。

だったら、私たちが学び、良く考えることで、
国会議員のレベルも上がることになるかもしれません。

「専門家が言っているのだから、そうなんでしょ」
「学者が言っているのだから、そうなんでしょ」
というスタンスは、医学と特に経済学では危ないと
私は思っています。

案外、私たちは今、ガリレオ以前の
天動説の時代を生きている可能性があります。

     *****

通貨の本質は、「貸す人と借りる人が現れました」
という証明書(借用書)なのですが、
(この話に戻りたい方は「その4」を参照ください)
一対一の個人的な貸し借りであるならば、
借用書を自分で書くだけで通用するわけですが、
貸し借りが、ネットワーク化したら、
私的な借用書は通用しません。

そこで、
国家と銀行が、もっぱらこれを発行する、
と決めておくことで、
やっと、誰もが安心して通貨(証明書)を
利用することが出来るわけです。

そして……

基本、銀行の親分である日本銀行も、
市中銀行と本質的に同じことをやっているわけです。

つまり、日本銀行も「信用創造」をやっています。
(信用創造の話に戻りたい方も「その4」を……)

庶民目線で見て、
日本銀行と市中銀行の大きな違いは、
ひとつは、日銀には一般国民に対する
窓口がないことですけれど、
もうひとつは、
日本銀行の場合は、紙幣を発行していることですかね。

今の日本の場合、
市中銀行は、紙幣は発行していません。
市中銀行に出来ることは、せいぜい、
通帳に金額を印字することだけです。

だけど、日本銀行が発行する一万円札と
市中銀行の通帳に印字される「10,000」という数字は
等価です。

だからこそ、
市中銀行の ATM で一万円札を入金したら、
通帳に、ごく普通に「10,000」と印字されます。

アタリマエのようですが、これは、市中銀行が
国から銀行業の免許を与えられているから
出来るわけです。

そして……、

日本銀行が発行する一万円札という紙幣と、
市中銀行の通帳の「10,000」が等価、ということは、

一万円札という紙幣も、その本質は「モノ」ではなく、
貸し借りを証明する信号に過ぎないということです。

話が、しつこいですか?

     *****

でも、ここまでしつこく同じ内容を、
視点を変えて、言葉を変えて繰り返してみて、
何か気づくことはありませんか?

たとえば、実は国家には「財源」など必要ない、
ということに気づきませんか?

国家は、通貨発行という形で、借用書、言い換えると、
「金額」という数値を伴った特殊な「交通信号」を
送り出しているだけなのですから。

実際に、どうやって市井に通貨を送り出しているのか、
それも、上記の URL の三橋先生の動画から
学ぶことが出来ます。

決して「バラマキ」ではない
通貨発行の正当な筋道が、ちゃんとあるのです。

「財源」など必要ない、そもそもそんなものは無いと
気づいていただければ、ここまでの話が、
「その1」の「税金は財源ではない」につながります。

     *****

ところがところが……

どうやら、国民に気づかれては困る人たちが
いるようなのです。

昔の大蔵省、今の財務省の人たちです。
彼らは、すっとぼけて、

「収入と支出のバランスが崩れると財政破綻する」

などと、まるで家計簿の論理で、
財政危機を煽り続けています。
国民に対してだけでなく、他の省庁や議員に対しても
同様のスタンスらしいですね。

なぜでしょうか?

その理由については、これは
三橋貴明先生が、最近メルマガ記事に書かれていた
ことの受け売りなのですが、
なるほど、そういうことかと合点がいきました。

要するに、
「国家の金庫番は、俺たち財務省だ」
という立場を堅持しておきたいのです。

「限られた税収でもって、逼迫した財政をなんとか
 調整している俺たち財務省の言うことを聞け」
というわけです。

本当は、逼迫なんかしていないんだけど、
本当は、財源なんかないんだけど、
逼迫した財源を抱えていることにして、
周囲を自分たちの言いなりにさせるやり方です。

平気でウソをつくあたり、
ちょっと彼らには、サイコパスの気質が疑われますが、
こういう人たちのことを、

 国賊(こくぞく)

と言うんじゃないでしょうか?

財務省、特に主計局。
彼らは、毎日トラック一杯分の書類すべてに一人で
正確に目を通す、そういう天才的なツワモノである
と聞いたことがありますが、
彼らの生きる目的は、いったい何なのか?と思います。

※ 「JGP」(Job Guaranty Program)という
 MMTから派生した雇用創出プログラムがあり、
 勤労と貨幣経済が不可分の関係にあることが、
 暗に示されている程度です。

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