【pdf】新儒教における物質観と動物観と人間観
新儒教における物質観と動物観と人間観
以下では、新儒教の創造主は新儒教系統の物質観と動物観と人間観を提示する。一般的には、多くの宗教はその系統の人間観を提示してきた。その人間観は人間を単なる動物から区別した。特に、牧畜民は家畜を扱うので、彼らは人間と動物の明確な違いを求めたように思える。
神話や宗教にも、神と人間と動物が入り混じった神話と動物と人間と神が明確に区別された宗教が存在する。前者には、エジプト神話とヒンドゥー教が存在する。エジプト神話では、ホルスはハヤブサの頭を持っている。ヒンドゥー教では、ガネーシャは象の頭を持っている。後者には、アブラハムの宗教がある。
現実的には、人間観は殺人行為に関する法律の適用に関係する。例えば、ある人間がタコ型の火星生命体と出会って、その火星生命体を破壊した。このとき、この行為は殺人行為に該当するのかが問題になる。一般的には、ある主体が人間であるのかどうかは知的能力に依存する。だから、もしその生命体が人間と同等の知的能力を持つならば、その行為は殺人行為に該当する。
1. 物質観
1. 物質観の系統性
神話の世界では、太陽は性や人格を持っていた。近代科学の発達以降、統一的な物質観が提示されて、物質は性や人格を持たなくなった。そこでは、物質は単なる機械になった。このように、時代や文明や宗教に関して、物質観は異なる。そこで、新儒教の創造主は物質観の系統性を提示する。
儒教系統の決まり1 x教系統の物質はx教徒が信仰する物質である。
xを儒教と仮定する。この時、儒教系統の物質は儒教徒が信仰する物質である。現実的には、現代の人々の物質観は近代科学によって世界的に統一されている。そのため、儒教系統の物質観はキリスト教系統の物質観にほとんど等しい。その他の宗教に関しても同様である。
2. 物質と運動
物質と動物では、運動の仕方が異なる。物質は完全に自動的に運動しているように見える。それに対して、動物は完全には自動的に運動せずに、非自動的に運動しているように見える。新儒教の創造主はこの運動の性質の違いを使用して、彼は物質と動物の違い認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が物質であるならば、その主体は自動的に運動する。
上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶をとると、もしある主体が自動的に運動しないならば、その主体は物質でない。例えば、犬は自動的には運動しない。
対偶を使用すると、犬は物質でない。その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が自動的に運動するならば、その主体は物質である。もしある主体が物質であるならば、その主体は非自動的に運動しない。
3. 物質と性
一般的には、物質は性を持たない。一方、動物は性を持つ。植物はその中間である。そこで、新儒教の創造主は物質と動物の違いを性で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が物質であるならば、その主体は性を持たない。
対偶をとると、もしある主体が性を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は性を持つ。だから、犬は物質でない。当然、この思考規範は生物学では普遍的に成立しない可能性がある。
その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が性を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。
4. 物質と内面
物質は内面を持たない。それに対して、動物は内面を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを内面で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が物質であるならば、その主体は内面を持たない。
対偶をとると、もしある主体が内面を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は内面を持つ。だから、犬は物質でない。ここでの内面は感情や記憶などの低次な何かである。犬は飼い主を認識して、感情を表現する。人間はより高度な内面を持つ。
その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が内面を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。また、現実的には、ある主体が内面を持つのかは直接的には確認することができない。それは外部からの推論に依存する。
5. 物質と意識
物質は意識を持たない。それに対して、動物は意識を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを意識で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が物質であるならば、その主体は意識を持たない。
対偶をとると、もしある主体が意識を持つならば、その主体は物質でない。例えば、犬は意識を持つ。だから、犬は物質でない。意識には、視界や感情や性欲や記憶がある。その他の形式の思考規範には、次がある。もしある主体が意識を持たないならば、その主体は物質である。これが成り立つのかは不明である。例えば、睡眠中は、その主体は意識を持たない可能性がある。しかし、その主体を破壊すると、殺人行為に該当する可能性がある。当然、睡眠中、その主体は物質になったと考えることができる。
2. 動物観
1. 動物観の系統性
牧畜民と農耕民では、動物観が互いに異なる。また、牧畜民の影響を受けた宗教の動物観も牧畜的である。新儒教の創造主は動物観の系統性を提示する。
儒教系統の決まり1 x教系統の動物はx教徒が信仰する動物である。
xを儒教と仮定する。この時、儒教系統の動物は儒教徒が信仰する動物である。以下では、彼は儒教系統の動物を提示する。
2. 物質と運動
物質と動物では、運動の仕方が異なる。物質は完全に自動的に運動しているように見える。それに対して、動物は完全には自動的に運動せずに、非自動的に運動しているように見える。新儒教の創造主はこの運動の性質の違いを使用して、彼は物質と動物の違い認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は自動的に運動しない。
または、もしある主体が動物であるならば、その主体は非自動的に運動する。上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。現実的には、もしある主体が自動的に運動しないならば、その主体は動物である。または、もしある主体が非自動的に運動するならば、その主体は動物である。
対偶を取ると、もしある主体が自動的に運動するならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は自動的に運動する。上記の思考規範を使用すると、太陽は動物でない。
今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は自動的に運動しない。実際に、彼が犬を観察すると、彼の認識では、犬は自動的に運動しない。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。
3. 動物と性
一般的には、物質は性を持たない。一方、動物は性を持つ。植物はその中間である。そこで、新儒教の創造主は物質と動物の違いを性で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は性を持つ。
上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶を取ると、もしある主体が性を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は性を持たない。だから、太陽は動物でない。現実的には、もしある主体が性を持つならば、その主体は動物である。
今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は性を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は性を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。
儒教系統の認識2 性には、メスとオスがある。
または、彼はメスとオスを動物の性として認識する。また、動物の存在には、メス系統の存在とオス系統の存在がある。動物の状態には、メス系統の状態とオス系統の状態がある。動物の運動には、メス系統の運動とオス系統の運動がある。
4. 動物と内面
物質は内面を持たない。それに対して、動物は内面を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを内面で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は内面を持つ。
上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶をとると、もしある主体が内面を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は内面を持たない。だから、太陽は動物でない。現実的には、もしある主体が内面を持つならば、その主体は動物である。
今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は内面を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は内面を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。ここでの内面は感情や記憶などの低次な何かである。犬は飼い主を認識して、感情を表現する。人間はより高度な内面を持つ。
5. 動物と意識
物質は意識を持たない。それに対して、動物は意識を持つ。新儒教の創造主は物質と動物の違いを意識で認識する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は意識を持つ。
上記は定義のような文である。上記が実際であるのかは不明である。対偶を取ると、もしある主体が意識を持たないならば、その主体は動物でない。例えば、太陽は意識を持たない。だから、太陽は動物でない。
今、彼は次を仮定する。犬は動物である。上記の思考規範を使用すると、犬は意識を持つ。実際に、彼が犬を観察すると、犬は意識を持つ。この観察は思考規範の結論に一致する。だから、犬は動物である。
現実的には、もしある主体が意識を持つならば、その主体は動物である。これが現実に近い。例えば、睡眠中、動物は意識を持たない。上記をそのまま適用すると、動物は動物でない。当然、睡眠中の動物は動物でない可能性もある。
6. 動物と中の人
動物は意識を持つ。だから、動物はその意識を把握する中の人も持つ可能性がある。しかし、もし動物が中の人を持たないならば、中の人の存在の有無が人間を動物から区別する。そこで、新儒教の創造主は次の仮定を提示する。
儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は中の人を持たない。
または、もしある主体が動物であるならば、その主体は人間の中の人に等しい中の人を持たない。対偶を取ると、もしある主体が中の人を持つならば、その主体は動物でない。
7. 動物とサピエンス
大和民族はホモ・サピエンスと人間を区別していない。新儒教では、新儒教の創造主はx教系統の人間をサピエンスから区別する。
儒教系統の認識1 サピエンスは動物である。
サピエンスはx教系統の人間でない。サピエンスは動物である。例えば、キリスト教では、生まれた後に、幼児洗礼が行われる。彼の解釈として、幼児洗礼はサピエンスをキリスト教系統の人間にするために実行されている。生まれたばかりの赤ん坊は動物であり、x教系統の人間でない。
8. 物質と動物の組
動物は非自動的に運動する。同時に、動物の運動のほとんどは自動的である。新儒教の創造主は動物を物質的なものと動物的なものの組と認識する。
儒教系統の認識1 動物は物質的なものと動物的なものの組である。
言い換えると、彼は動物を物質的なものと動物的なものの組と認識する。動物は物質であるか、動物は動物であるかでなく、動物は物質的な性質と動物的な性質の両方を持つ。なお、上記を使用すると、物質は物質的なものの組である。物質的なものと動物的なものは物質性や動物性である。
9. 動物と自由意志
物質は自動的に運動する。動物は非自動的に運動する。動物は自由意志を持っているので、動物は非自動的に運動することができる。新儒教の創造主はそのように解釈する。彼は次を提示する。
儒教系統の認識1 動物は自由意志を持つ。
言い換えると、動物は自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。動物と運動における思考規範によって、動物は自動的に運動しない。自動的に運動しないを非自動的に運動すると置き換えると、動物は非自動的に運動する。
さらに、物質と動物の組みを使用すると、動物は物質的なものと動物的なものの組である。つまり、動物は自動的に運動する性質と非自動的に運動する性質を持つ。彼の認識では、動物は自己の自動的な運動を非自動的な運動に変化させる。だから、動物は自由意志を持つ。なお、以上は感覚的な話であり、厳密な証明でない。
10. 動物性と連続性
虫も犬も動物である。犬は虫よりもより非自動的に運動しているように見える。一方、虫は機械のように運動している。動物性は1か0でなく、動物性は連続的である。新儒教の創造主は次を提示する。
儒教系統の認識1 動物性は連続的である。
言い換えると、動物性は1か0でない。一般的には、下等生物ほど機械のように運動する。虫は機械的である。それに対して、シャチや犬やカラスはより非自動的に運動する。植物は物質と虫の中間あたりに配置される。ウイルスは不明であるが、植物と虫の間に配置されるかもしれない。
11. 動物と家畜
牧畜民は家畜を扱う。そのため、彼らは野生動物と家畜を明確に区別する。新儒教の創造主は牧畜民の動物観を提示する。
儒教系統の認識1 動物には、家畜と野生動物がある。
豚や馬は家畜である。犬や猫は愛玩動物である。野生動物には、シャチやクマがある。家畜は自由でない。愛玩動物は野生動物よりも自由でない。
3. 人間観
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