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俺ら(katotoorera)の政治信条〜統治の正当性と(知的)能力〜

 以下では、俺は統治の正当性と(知的)能力について述べる。現在、医者や学者、そして弁護士に対する信用や信頼が大幅に低下している。けれども、彼らは比較的に高い知的能力を持っている。

もし知的能力が統治の正当性を授けるならば、その時、彼らこそが "エリート" として民を統治するべきであるのだろうか?

画像:https://unsplash.com/photos/hyPt63Df3Dw

1章 統治の正当性と(知的)能力

 俺の認識 任意の能力は統治の正当性それ自体を民に授けない。

 任意の能力は統治の正当性それ自体を民に授けない。俺らはホモ・サピエンスの(知的)能力を運動選手としての能力と認識する。だから、たとえある天才的な運動選手が彼らの運動競技を競技し続けて、第一位になるとしても、その運動選手はその運動業界の民の統治者になる正当性を獲得することができない。

同様に、たとえある人間が高い数理能力を持つとしても、その数理能力それ自体は民の統治の正当性を授けない。なぜなら、統治能力も統治の正当性もまた運動選手としての能力の延長線上には存在しない。実際、運動選手は自己の運度競技システムそれ自体を作っていない。

統治において、統治者の知的能力は「必要なもの」であり、その能力自体が統治の正当性を授ける何かでない。実際、統治者になるためには、人間社会における平等や公平などの社会的な概念が必要である。けれども、大和民族の医者も弁護士も、そして学者も平等や公平という概念それ自体を認識することができないように見える。

 なぜなら、一般的に、選手それ自体は平等や公平を試合の中で考慮して、競技する必要はないので、平等や公平に対する感覚は不要である。

2章 認識(定理?)

 俺の認識 統治の正当性は(運動選手としての)能力の延長線上には存在しない。

 統治の正当性は(運動選手としての)能力の延長線上には存在しない。つまり、たとえ学者や医者が頑張って、彼らの業績を出すとしても、彼らは統治の正当性を獲得することができない。彼らは選手としてのみ評価される。これはたとえある選手が最も優秀な能力を獲得するとしても、その選手が試合における審判の役割を担えないことに似ている。

上記の定理?は民主主義が代表的である。民主主義における統治の正当性は国民の自由意志による選挙の結果によって授けられる。だから、たとえ最も知的に低い統治者が選択されるとしても、その統治者は統治の正当性を持っている。

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