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人文学(文系)を含む学問や大学は必要か?不要か?〜呉座勇一と北村紗衣と山内翔太、亀田俊和〜

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 日本列島の上の大和民族が呉座勇一と亀田俊和と北村紗衣と山内翔太、その他の学者に関する争いを見た後、大和民族は学者と呼ばれる対象の異常なまでの幼稚性に心底呆れた。その後、彼らは学問や大学は不要であると内心感じた。

実際、俺もまた呉座勇一と北村紗衣と山内翔太に関する争いを見た後、俺は文系は一度清算した方が良いと結論づけた。また、俺は学問の自由も大学の自治も不要であると結論づけた。

以下では、俺はなぜ日本国の学問や大学はこれほどまでに腐敗したのかを提示するつもりである。繰り返すが、俺は学問や大学の問題は呉座勇一と亀田俊和と北村紗衣と山内翔太という個人に関する問題でなく、学術文化や社会システムに関する問題であると認識する。

画像:https://unsplash.com/photos/LLfRMRT-9AY

1章 学者という問題

 大学や学問が腐敗しているのは学者の存在が原因である。もし学者が存在しなければ、大学や学問は腐敗しない。学問や大学の腐敗を除去するためには、学者の存在を除去することが必要である。

・分析者

 俺の認識 学者は与えられた対象を分析することに長けているが、彼らは自己の社会を形成したり、社会を管理・統治することができない。にも関わらず、学者が分析行為を超えて、学問の自由や大学の自治を掲げて、社会形成や統治に参加するので、組織が腐敗してしまう。

 上記が大学及び学問の腐敗の原因である。口語的には、学者が社会の素人形成や素人統治を実行するので、大学や学問が腐敗してきた。例えば、呉座勇一や亀田俊和は他人が作った歴史を分析する主体である。北村紗衣はシェイクスピアが作った作品を分析する主体である。彼らは歴史を作る主体や作品を作る主体でなく、副次的な産物である。

人間社会の形成や社会の統治を彼らにやらせることは、呉座勇一や亀田俊和に統治者をやらせることやプーチンの役割をやらせることに似ている。北村紗衣にシェイクスピアを書かせることに似ている。当然、彼らは分析者としての能力を持っているとしても、彼らは歴史を一次的に創造する能力や歴史に残る小説を作る能力を持っていない。

基本的には、学者と呼ばれる主体は何かを0から作ったりすることができない。彼らは何かを統治することができない。彼らは与えられた対象を分析することができる。

・知的障害

 俺の認識 学者の一部は深刻な知的障害を持っているように見える。にも関わらず、彼らは数学や物理ができるというだけで、彼らは「先生という神」になってしまう。当然、知的障害者は社会形成も統治もできないので、自己の社会や組織を崩壊させる。

 知的障害には、発達障害やアスペルガーがある。上記は文系よりも理系に多く観察されるように見える。言い換えると、知的障害者が自己の社会の形成を彼ら自身で担い、かつ統治しなければいけない状態になってる。この状態は本当に喜劇であるが、彼らは喜劇に気づいていない。当然、知的障害者に社会形成や統治を担わせると、その社会は崩壊する。

上記の状態は映画「ミッドサマー」に似ている。その映画では、近親相姦で生まれた障害者が預言者として崇拝されていた。この状態は数学できる知的障害者が「先生」として崇拝されていることに似ている。または、インドでは、象皮症の患者がヒンドゥー教における神として崇拝されていた。どちらも未開の民の行為である。

また、近代以前には、知的障害の王様が存在していた。彼らは王様として崇拝されていた。例えば、ハプスブルク家や徳川家や天皇家にも、知的障害が疑われるような例が存在したはずである。しかし、民は彼らが知的障害者であったことを何かおかしいと感じなかっただろう。不満はあったかもしれないが…。

同様に、大和民族の民は学者を見て、非常識だと感じるが、彼らは学者がハプスブルク家や徳川家や天皇家のように知的障害者であると感じていないように見える。ハプスブルク家や徳川家や天皇家の場合、周りの家来が知的障害者の王様を制御していたが、大和民族の学者の場合、知的障害者を制御する主体が存在しない。たとえ知的障害者が暴れても、その暴力が放置されているような状態である。

2章 学問という問題

 一部の民は呉座勇一と北村紗衣と山内翔太をみて、人文系は不要であると感じた。俺はこの種の意見に同意するが、俺は人文系の学者だけでなく、学問それ自体が不要であると審判する。

・副次的な行為

 俺の認識 与えらた対象を分析する行為それ自体はそれほど必要とされていない。

 学問とは、与えられた対象を分析する営みである。サッカーで例えると、サッカーの学問とは、サッカー業界を分析する営みである。理論物理学では、サッカー選手の物理的な性質が分析される。歴史学では、サッカーの歴史が分析される。

しかし、より重要であるのは、サッカーという社会における競技やサッカー業界の管理・統治、そしてサッカーという社会の形成それ自体である。そこでは、学問は最も後に位置して、最も副次的な産物である。

誇張するならば、たとえ歴史学や理論物理学が存在しなくても、サッカーという運動競技それ自体は回る可能性がある。なぜなら、理論物理学者が自然界を創造しているわけでない。なぜなら、歴史学者がサッカーを創造しているわけでない。

上記を考慮すると、日本国には、大学が多すぎる。日本国には、分析者が多すぎる。彼らは皆分析者になりたがり、彼らは社会形成も社会の統治も管理もしたがらない。さらに、彼らは競技者としても協議しようとしない。なぜなら、分析という営みは本当に楽である。

・評論家の台頭

 俺の認識 学問は評論家を台頭させて、評論家や単なる分析者を競技者や統治者、社会形成者や創造主よりも優位に置く。学問は統治者の真似事を単なる分析者にさせる。

 上記は作家と文学者や評論家の関係に言える。豊崎由美という評論家は作家よりも高慢である。彼女は彼女は評論してやっているのだから、彼女は作家よりも偉いと感じているように見える。また、宗教学者も本当は教祖になりたいのにも関わらず、教祖になれないので、宗教を分析することによって、教祖よりも優位に立とうとする。

自然科学者の場合は、科学者は自然界の創造主やヤハウェよりも高慢である。しかし、科学者は自然界それ自体を創造したわけでない。このように、学問という営みはしばしば、創造主を凌駕し始める。

当然であるが、サッカーの分析者や評論家は最も低位の存在である。一番偉いのは、サッカーシステムの創造主であり、次はそのシステムの統治者であり、その次は競技者である。客は競技者と対等であるか、競技者の後に配置される。最後に、分析者や評論家が存在する。

もし分析者や評論家が選手や統治者を凌駕したならば、そのシムテムは腐敗して崩壊するだろう。しかし、現実的には、学術会議における松宮孝明や岡田正則に代表されるように、日本国にける学者の一部は国家システムの統治者(政治家)や客でもある民を凌駕しているように見える。

3章 最終的な審判

 以下では、俺は最終的な審判を下す。始めに、俺は学者という存在それ自体を廃止すると主張する。次に、俺は学問という存在それ自体を廃止すると主張する。俺らが学問や学者を廃止するとき、俺は学問や学者を段階的に廃止する必要がある。

・学者の廃止

 俺の認識 学者を廃止して、分析者にせよ。

 学者という職業それ自体が不要である。学者は何をやっているのかが不明瞭である。だから、学者を廃止して、分析者に置き換える。この時、誰が何をやっているのかが明確になる。学者という単語は悪用されているので、学者という単語を廃止して、学問や学者を装った行為を防止する。

また、俺が学者という単語を廃止して、分析者という単語を用いるとき、学者が統治者の真似事をしたりすることを防止することができるだろう。なぜなら、その時、俺は「君は分析者であるよね?なぜ統治者の真似事をやっているのか」と尋ねることができる。

・学問の廃止

俺の認識 学問を廃止して、分析行為にせよ。

 同様に、学問という営みそれ自体が不要である。学問を廃止して、分析行為に変える。こちらの方が、彼らが何をやっているのかを明確にすることができる。この時、俺は分析の自由や分析所の自治の意味をより明確に把握することができる。

単なる分析や分析所には、自由も自治も不要であるだろう。この時、俺はシェイクスピアを分析する行為、分析行為は必要であるのかを問うことができる。また、歴史に関しても、その歴史を分析する行為、分析行為は必要であるのかを問うことができる。結論から言って、人文系のほとんどは分析するに値しない分析行為がほとんどである。

上記は数学や科学にも応用される。分析者は自己の数学的な対象や科学的な対象が分析するに値するのかを提示する必要がある。彼らは自己の行為を学問という単語で誤魔化すべきでない。

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