見出し画像

【pdf】新儒教における自己

新儒教における自己
以下では、新儒教の創造主は儒教系統の自己を提示する。一般的には、自己は自己認識(アイデンティティ)や人種や民族に関係する。自己は社会や国家や文明にも密接に関係する。また、自己は教育における自己形成にも関係する。

宗教が異なると、何を自己とみなすのかや自己認識それ自体が異なる。例えば、仏教では、自己は無我として存在しないらしい。現実的な自己では、西洋文明では、ユダヤ教徒の白人はユダヤ人のように一種の人種や民族になっている。アメリカ国民がまるでアメリカ人のように一種の人種になっている。

このように、宗教や文明が異なると、何を自己とするのかも異なる。そこで、彼は儒教系統の自己を提示する。なお、己は人間を動物から区別する。なぜなら、動物には、自己認識(self-aware)が存在しない。そのため、羊を犬の群れに入れると、その羊はまるで犬になったかのように振る舞う。動物の多くは鏡像認知を持っていない。一方、人間のみが自己を正しく認識する。


1. 儒教系統の自己

1. 儒教系統の自己

仏教では、無我という考えがあるらしい。そこでは、自己は存在しない、または自己は不変でなく、常に変化する。新儒教では、創造主は自己の存在を次のように考える。または、彼は次のように信仰する。

儒教系統の決まり1 儒教系統の自己は中の人それ自体である。

中の人が自己である。感覚(意識)は自己でない。車体で例えると、肉体という車体が存在する。感覚という立体映像が存在する。そして、車体の中の運転手が存在する。ここでは、自己は車体の中の運転手である。

儒教系統の決まり2 儒教系統の自己は肉体と感覚と主体の組みである。

中の人を自己とすると、肉体や感覚は自己でないのかという疑問が生じる。そこで、彼は組みを使用して、自己を少し拡張する。儒教系統の自己はサピエンスの肉体とその肉体に対応する意識
(感覚)、そしてその意識を把握する中の人の組みである。

儒教系統の決まり3 肉体それ自体は自己でない。

たとえ肉体が存在するとしても、意識や主体が存在しないならば、その肉体は無意味である。それは自動運転車と同じである。つまり、彼は肌の色や顔の形、顔それ自体を彼の自己と認識しない。それらは車体の色や形、車体のデザインと同じである。


2. 自己の意識と自己

上記では、創造主は中の人を自己と仮定した。しかし、中の人が実際に存在しているのかは不明である。そこで、彼は自己が感覚である可能性を考慮して、彼は次を提示する。

儒教系統の認識1 自己の意識が自己それ自体であるのかは不明である。

例えば、彼の視界が彼それ自体であるのかは不明である。または、彼の意識やそれぞれの感覚を統合する意識が彼それ自体であるのかは不明である。

儒教系統の思考規範1 もし中の人が存在しないならば、自己の意識それ自体が自己である。

中の人は自己の感覚それ自体であるのか、中の人と自己の感覚は分離されるのかは不明である。しかし、ここでは、彼は自己と自己の感覚を分離して、自己を中の人と仮定する。少なくとも、何かを感じる主体は存在するので、彼はその何かを自己と信仰する。


3. 自己の性質

ここで、創造主は自己の性質を提示する。

儒教系統の思考規範1 もし自己が中の人であるならば、儒教系統の自己は知覚されない。

言い換えると、もし自己が中の人であるならば、儒教系統の自己は見えない。ただし、意識を自己と仮定するならば、儒教系統の自己は見える。なぜなら、自己は視界それ自体である。

儒教系統の認識2 儒教系統の自己は他者によって外部から把握されない。

実際に、彼は非自己の自己を肉体の外部から把握しない。また、たとえ自己が意識であるとしても、彼は非自己のその自己を肉体の外部から把握しない。


4. 自己と表現

儒教系統の自己は他者によって外部から把握されない。そのため、その自己は言葉という一つの手段によって表現される必要がある。そこで、人間界の創造主は次を提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が「俺は自己を把握する。」と表現しないならば、別の主体は彼の自己を信仰しない。

少なくとも、彼はその主体の自己が人間社会に所属すると信仰しない。「俺は自己を把握す
る。」は「俺は自己を把握している。」であるかもしれない。言語的に表現しないならば、彼は他者の自己がx教系統の人間社会に所属していると信仰する必要はない。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が「俺は俺の中の人を自己と決める。」と表現しないならば、別の主体は彼の中の人を自己と信仰しない。

なお、ここでの中の人は主体のことである。


5. 自己の破壊と思考規範

創造主は中の人を自己とした。日常的には、肉体が破壊されると、自己も破壊される。そのため、肉体の破壊は殺人行為として処理される。彼はこの現象を次のように提示する。

儒教系統の思考規範1 もしある儒教徒の肉体が破壊されるならば、儒教徒の意識及び中の人が破壊される。

上記では、もし肉体が破壊されるならば、意識や主体も連鎖的に破壊される。このとき、肉体の破壊が殺人行為として処理される。なお、肉体の破壊は肉体の破壊及び意識の破壊及び中の人の破壊である。上記のより、もしある儒教徒の肉体が破壊されるならば、儒教徒の自己が破壊される。

儒教系統の思考規範2 もしある主体が自己を持たないならば、その主体は原理的に破壊されない。

たとえその主体が破壊されても、その主体は自己を持たないので、その行為は破壊行為でない。もしある主体が自己を持たないならば、たとえその主体が破壊されるとしても、その行為は自己破壊行為でない。


6. 自己と無我

仏教では、普遍的な自我が仮定されない場合があるように思える。また、無我が考えられている。しかし、現実的には、自己が存在しないと、何かを所有する主体が存在しなくなる。そこで、創造主は自己を次のように決める。

儒教系統の決まり1 儒教系統の自己が存在する。

上記を使用すると、無我は存在しない。また、彼は普遍的な自己を便宜的に仮定する。なぜなら、彼が自己を常に流転すると仮定すると、所有する主体も常に揺らぐ。すると、商業活動が阻害される。だから、彼は普遍的な自己を便宜的に仮定する。


7. 自己の性

動物には、オスとメスという雌雄が存在する。この事実を使用すると、意識や中の人にも、雌雄が存在する可能性がある。

儒教系統の思考規範1 もし中の人の種類が肉体の種類に対応するならば、中の人の性が存在する。

より正確には、もし中の人の性が肉体の性に対応するならば、中の人の性が存在する。つまり、オスに対応する中の人とメスに対応する中の人が存在する。オスの中の人とメスの中の人が存在する。人工的には、x教系統の男性に対応する中の人とx教系統の女性に対応する中の人が存在する。x教系統の男性の中の人とx教系統の女性の中の人が存在する。なお、意識の場合は次である。

儒教系統の思考規範2 もし意識の種類が肉体の種類に対応するならば、意識の性が存在する。

より正確には、もし意識の性が肉体の性に対応するならば、意識の性が存在する。つまり、オスに対応する意識とメスに対応する意識が存在する。オスの意識とメスの意識が存在する。


8. 自己の人種

肉体には、人種が認識される。しかし、意識や中の人は物質でないので、人種が存在するのかは不明である。そこで、創造主は意識の人種や中の人種を導入して、彼は自己の人種を導入する。

儒教系統の思考規範1 もし中の人の種類が肉体の種類に対応するならば、中の人の人種が存在する。

より正確には、もし中の人の人種が肉体の人種に対応するならば、中の人の人種が存在する。つまり、モンゴロイド人種系統の中の人やコーカサス人種系統の中の人が存在する。

儒教系統の思考規範2 もし意識の種類が肉体の種類に対応するならば、意識の人種が存在する。

より正確には、もし中の人の人種が肉体の人種に対応するならば、中の人の人種が存在する。つまり、モンゴロイド人種系統の意識やコーカサス人種系統の意識が存在する。


9. 動物の自己認識

創造主は動物の自己認識を提示する。動物は周りのものに憑依して、それを自己と思い込む。犬の中の羊は自己を犬と思い込む。なぜなら、その羊の視界には、犬のみが写っているので、羊はその写っている対象を自己と認識する。新儒教では、彼はこの種の自己認識を採用しない。

儒教系統の思考規範1 もしある主体が動物であるならば、その主体は知覚したものを自己と認識する。

白人と結婚した日本モンゴロイド人の視界には、白人が写っているので、その雌は白人を自己と思い込む。関西人は他人を自分と呼ぶ。なぜなら、関西人の視界には、他人が写っているので、その他人を自己と思い込む。その他には、偽名や民族や人種の背乗り、憑依が存在する。また、視界を自己と認識するのも、(1)の結果であるかもしれない。


2. 儒教系統の人工的な自己

ここから先は

5,653字
この記事のみ ¥ 500

この記事が参加している募集

自己紹介

仕事について話そう

社会システムの設計に関する寄付は「ここから」。 君の寄付をありがとう!とても嬉しい!