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もしかしたら宿命解説【源頼朝編】⑤

こんばんは。
香取大介です。

少し時間が空いてしまいましたが、「もしかしたら宿命解説」五回目です。
今回は、大河ドラマ第3話辺りの宿命解説を勝手にこじつけてやってしまおうと思います。

頼朝が33歳の時(数え年で解説してません)が治承4年(1180年)となります。

4月27日、以仁王からの令旨が頼朝のもとに届きます。

ドラマでは頼朝は勝てる戦ではないという理由で挙兵をためらっておりました。

また、挙兵する理由も悩んでおりました。

後天運で観ていく前に、頼朝の宿命から見た性格を少し。。。

頼朝は生月天中殺となっています。生月中殺は「家系」との不自然な状態を示します。当時、以仁王と手を組んだ源頼政は、頼朝とは別格過ぎるほどの高いくらいに居た人物でした(頼朝とは血筋が違う源姓ですが)。頼朝目線から見た時に、非常に気に入らなかったのではないでしょうか。自分は源氏の嫡流という自負があったと思われる頼朝からすれば、同じ源の姓を受けた者で、かつ自分の父、義朝側につかず、清盛側について今の地位を築いた頼政が、自分よりも早く、打倒平家を打ち立て、以仁王(後白河法皇の子)と共に戦うことに手を貸す通りはないと判断したと思われます。

 →北方車騎星を持っている頼朝は、自分の正義感で決断する性格を持っています。

そして、生月中殺の頼朝ですから、自分ではない源氏が指揮する戦でその傘下に加わることは、頼朝の宿命上、とても承服しかねないことだったと思うのです。

故に、頼朝は打倒平家を胸に秘めながらも、今この瞬間に挙兵することをしなかったといってもいいと思います。また、それが結果的によかったと個人的には解釈しています。令旨が届いたのは辰月(4月)の天中殺月。自ら戦を起こす、卯と辰は害に当たりますし、年運「庚子」とは、旺気刑でもあります。ここで流れに身を任せて、自ら挙兵する(叔父の源行家や頼政、以仁王の願いを受けて立ち上がるタイプではないと自分は思っているので)と決めると、結果的にうまく事が運ばなかったでしょう。

「鎌倉殿の13人」の世界では、後白河院からの命令でもあればみたいな運びとなり、密書が実は届いてますと話が進み、挙兵を決意する頼朝ですが、この事実があったかどうかは定かではありませんが、頼朝の性格上、時の朝廷の最高権力者でもある後白河院からの命という大義名分は(北方、車騎星・日干、辛)、これ以上ない挙兵の理由となったのではないでしょうか。しかも日支が「丑」の頼朝にとって、この「庚子」の年運は、とても良い運勢が巡ってきています。

 →日支は紹介で動くと吉。後白河院から動いてと言われた受動的な動きなので吉。支合なので、スピード感は無くじっくりゆっくり動く(これが、石橋山での敗戦につながった?)。

あわせて、年運「庚子」と日支「辛丑」は干支双連といって、行動の一致度が高く、結びつきの強い相性となります。年運でやってくるわけですから、この年にやって来る者や、家族(この場合は北条家?)との結びつきが深まり、一蓮托生の運勢を形作っていきます。ですので、この年の挙兵はこの年に出会った者たち(大河ドラマ3話でいうところの、文覚や源行家→二人の今後の詳細は割愛)や、北条一派とは、鎌倉幕府を開いていくのに力となった者たちへと変貌して行きました。

そして、33歳からの大運は「辛丑」。頼朝の日支と律音です。

この律音は、自分の意志が強まる時期ですから、大運律音で打倒平家。そしてドラマ中で政子が頼朝に発破をかけた、新しい世づくりをしていく決意をするにはこれ以上ないタイミングだったと観ていいでしょう。

もしかしたら、頼朝が千鶴丸が殺された辺りで感情に任せ、打倒平家へ打って出ていたらならば、鎌倉幕府は存在しなかったでしょうし、頼朝以降、およそ700年続く武士の時代はやってこなかったかもしれません。

治承4年という年は、頼朝にとって自分の人生を確定づけた年であったと言っても過言ではないと思います。

…ということは、この年の前に、頼朝の宿命を稼働させる何かがあったのではという推測も経ちます。

次回のお話はそのあたりをこじつけてみようと思います。

もしかしたら宿命解説。

今日はこの辺りで(^-^)

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