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なぜ学歴社会は、成果を上げられないのか

 なぜ学歴社会は間違っているのか、という話をします。当たり前すぎて言うのも恥ずかしいほどですが、学歴はペーパーテストの能力であり、社会実務の能力と関係ないし、それも何十年前のスコアでやっているからです。いわば、甲子園で活躍した選手を、10年後に、そのままサッカー日本代表にするようなものです。そりゃ、できなくて当たり前でしょう。

 と、あっという間に終わってもつまらないので、じゃあなぜそれほど役に立たない学歴なるものが、いまだに通用するのか。本質はコミュニティだと思います。

 いつもコミュニティの話をしていますが、人間というのは、どこにも所属していない状態には普通は耐えられず、何かに所属したいんです。そして「学歴」というのは、所属です。ただ単に、仲間なんですよ。早稲田を出た僕らは仲間だよね、というぐらいです。

 学校という、コミュニティというにはあまりに弱い繋がりがこれほど蔓延する、その背景には、もっと強いコミュニティであるはずの、地縁・血縁が無くなっていく、ということがあります。地縁が無くなっていくのは、東京一極集中なので、地方の繋がりをそのまま東京に持ってくることが、できないから。「上京する人」と「地元に残る人」が分断されて、地縁が無くなっていく。血縁は、そもそも日本ではそこまで強くないと思います。

 日本は、血縁が強くないからこそ、養子も普通に行われます。江戸時代も、他所から優秀な子供を養子に迎えるとか、普通にやっていますし。血縁よりも、農家なら田んぼ、商業なら店舗、それらの事業体を核とした繋がりが強い。それらは、代々、同じ場所で行われるものです。地域コミュニティと強く結びついている。地縁が強いんです。で、この地縁が東京一極集中で失われていったからこそ、一極集中で集まってきた「孤独な(テストで)優秀な人間」が作ったコミュニティが、学歴です。

 学歴、いわば「学縁」が「地縁」よりも弱いのは、互いの人間性をそんなに知らないからです。地縁ならば、あいつはどういうやつだ、というのを知っているわけです。幼い頃から知っている人もいるし、性格もよくわかっている。でも学歴というのは18歳以降ですから、そんなに深い付き合いにならない。コミュニティとして、浅いんです。個人個人を知らないからこそ、適材適所な配置ができない。ただ「テストの点数」という、特に関係のないスコアで分類されていく。そんなのが、うまくいくわけが無いんです。

「優秀な組織」の本質というのは、適材適所です。そして、環境や情勢というのは常に変化しますから、その都度、適材適所を入れ替える必要がある。そのために必要なことは、お互いの人間性や能力を深く知っていること、です。でも、学歴(学縁)というのは浅い付き合いであり、また、浅いからこそ仲間でも無い。仲間であるけど、競争相手でもある。そんな相手に手の内は見せないでしょう。自分の能力だって、過大に見せて偽りますよ。弱みを見せない。結果、適材適所とは程遠い人事が行われることになる。

 ってことで、学歴社会がなぜいけないかというと、学校というコミュニティは人間理解が薄いから、適材適所の人事を行いにくい、ということです。はい。またあした。

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