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ダラダラと話すことがコミュニケーションの基本

 うちの子供が、中学生と小学生がいるんですが、この2人が仲が良くて。お互いに色々と話をしているんですが。バラバラで行動する時も、そりゃあるわけで、1日、別行動をしていたとしましょう。すると、その日、どうしていたかというのを、事細かに話しているんですよ。それが、朝起きて、歯を磨いて、その後に髪をとかして、というレベルで詳細に時系列で語っていくから時間もかなりかかるわけです。で、片方も、ふんふんと聞いているわけです。

 んで、それが終わったら、もう片方も、こっちはね、という話を始めるわけです。当然、親がそうしろと言ったわけもなく、自然発生的にそうなったんですけど。で、似たような話で、アマゾンだかどこだかの原始民族が、狩りに行ったとして、1週間ぐらいかかったとする。で、帰ってきた。その時の1週間の体験を、何時間にもわたって話すんですって。で、村の仲間は、ふんふんと聞いているんですって。

 また、原始民族のところに、旅人がやってきたとしましょう。言語は通じるけど、初対面の人です。で、その旅人は、自分がどこからやってきて、どういう人間かというのを、1日や2日かけて話すんですって。1時間や2時間、じゃ無いですよ。1日とか2日。そして、自分はこういうものだという話が終わったら、村の者が、この村はこういうところで、というのを延々と話し始める。

 現代の「話し方」は、きちんと要点をまとめましょうとか、簡潔にわかりやすく伝えましょう、というのが「良い話し方」でしょう。でも、例えが自分でも変だなと思いながら言うけれども、海水から作ったミネラルが多く含まれた塩と、塩化ナトリウムが違うように。精製された話というのは、多くの栄養素を失っているのではないか、と思う。伝えられることが、その分だけ、削ぎ落とされて、悪化しているんじゃ無いかと思う。本当の「話」というのは、延々とダラダラと話し続けることではないかと思うんです。

 人間の最も優れた能力は、話すことじゃないかと思う。これほど「話せる」動物は、いない。複雑な音声を延々と出し続けられる。そして相手もそれを聞いていられる。その話を理解して、共感して、意思統一して共同体を作ることが、人間の最大の能力であり、その根本は「話すこと」にあるんだと思うんです。

「うまい話し方」みたいな本も山ほどありますけど。あんなものは、本質的では無くて。それは、時間が限られたプレゼンとか、営業トークとかです。本当、そんなものは、どうでもいい。話の本質は、理解しあって、仲良くなることです。話す目的が「仲良くなること」では無い場合に、スキルが必要になるから、うまい話し方とか、聞く力、みたいなことになる。それは、現代社会の目的の多くは、お金を稼ぐことであり、「仲良くなること」では無いから。仲良くなるためには、ただ、延々と思うがままに話を続ければいいんだと思います。

 でも現代人の多くは、僕もそうですが、「話す」経験がとても少ない。学校では、おしゃべりはいけませんと言われる。それでも人間の本能は丈夫だから、一生懸命、話そうとしますが。子供の一生懸命の話をいちいち聞いてやるほど暇な親は少ないし、聞いてやるほど暇な祖父母は孫とは一緒に住んでいなかったりする。話す相手はいなくなる。だから、話をせめて聴こうと思って、テレビをつけっぱなしにする。テレビは、話してくれるから。

 話す訓練ができていない我々は、自分の話なんか誰も興味が無いだろうと思ってしまうし、うまく話さなければいけない、面白く話さなければいけない、とも思ってしまう。そんな必要は無くて、何度も同じ話をしてもいいし、うまく話す必要もないし、ダラダラと話しても良い。それを聞いていられないというほど忙しい我々の状況を反省しなくては、いけない。ま、このメルマガ(note)も延々と話しているつもりで、いつも書いています。これがコミュニケーションの基本かなと思っているので。またあした。

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