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我々は、大きな問題を感じることができない

 あらゆることに言えると思うんですが、問題が「どのレベル」にあるのか把握しておく、というのは重要だと思っています。その問題は小さいことなのか、大きなことなのか。それにより、良し悪しが変わってくることがある。

 例えば、僕は「藤川理論」という健康法が正しいと思っていて。一言で言えば、とにかく現代人はタンパク質が不足しているから、まずはプロテインを飲みまくれ、という話です。で、プロテインをしっかり摂れるようになったら、ビタミンをサプリで補え、という話です。ま、興味ある方は「藤川理論」でググってください。

 でも一方で、プロテインやサプリには添加物があるし、健康に良くないのではないか、という話もあります。どっちも正しいんですよ。ただ、話のレベルが違う。

 僕の理解では、タンパク質が足りないというのは「大きな話」であり、添加物というのは「小さな話」です。その場合、僕は「大きな話」の方が重要だと思う。添加物は健康には悪いけれども、プラス100の前では、マイナス5ぐらいはどうでもいいだろう、と僕は思います。マイナス5も、たしかに存在は、している。ただ、小さいから気にするな、ってことです。

 農業で言えば、有機無農薬にも、同じように思っていて。化学肥料が環境を汚染するとか、農薬や除草剤が良くないというのも、当たり前なんですよ。ただ、その一方で、大きな話として、化学肥料や農薬がなければ、これだけ増えた人類の食を維持できない、ということも確かです。食糧安全保障という国レベルの問題もある。そういうレベルの話の前では、有機無農薬が健康に良いよね、環境に優しいよね、というのは、そりゃそうだけど小さな問題ではないか、と思うわけです。


 世の中の問題というのは多岐にわたり、そして、我々はそれを本能的には「問題のサイズ」として理解できません。

 これも毎度、言うことですが、人間の本能というのは数万年間、変化しておらず、我々の情動や感情は、我々が100人ぐらいの狩猟採取集団として生きていると思っており、そこでの最適解を取らすように働きます。国や現代社会というレベルの問題、また、国境を越えた環境問題などに、本能的に反応できるわけでは無いんです。だから「重大な問題」を、そんなに重大だと感じられない。

 じゃあ、我々はどのような問題を「重大な問題」かと感じるのかというと、100人集団で起こり得るぐらいの問題です。

 先日、千葉の松戸で女の子が行方不明になり、川で遺体が見つかるという事件がありました。痛ましいし悲しいことですが、一方で、それはテレビや新聞で何千万人が話題にするほどの重大な問題なのかというと、そうでは無い。その1日のうちに、日本で数十人が自殺し、数十人が自動車事故に遭っている。過労のストレスから不調をきたす人も山ほどいる。デジタルに物事の大小で考えれば、その方がずっと重大な問題です。

 でも我々の本能的な情動は、そのように感じられない。「子供が川で溺れて亡くなった」ということは、100人の集団で言えば大事件です。

 一方で、過労のストレスで自殺したり、交通事故に遭ったり、酒の飲み過ぎで体を壊したり、偏った食事で病気になったり、そのような、はるかに重大な危険性を、我々の情動は感じられない。感じられないから、無視する。そんなこと、テレビで報道したって、誰も見やしませんから。つまらないんです。つまらないのは、我々の本能は、そんな問題はあり得ないよと判断しているから、つまらないんです。

 社会が巨大になってしまい、我々はその世界に気づいたら生まれ落ちているわけです。なので、本能的な情動に従っていては、重大な問題を見落とすことがある。っていうか、見落とす。

 で、どうすればいいかというと、きちんと、数字で判断することです。とある目的があり、その目的に大きな影響を及ぼしているのは、どういう問題か。そして、大きな問題から、順番にどうにかしていくことです。小さい問題に、我々の本能は「重大だ」とメッセージを発し、感情を揺さぶってきますが、小さな問題は小さな問題なんです。


 民主主義の限界を感じるのは、我々の本能がいまだに数万年前の環境に適応している状態で、我々の「情動に従った判断」は、とても信用ならない、ということです。これは資本主義にも言えて、資本主義のベースというのは、消費者の欲求です。この欲求もまた、数万年前の環境に適応しているわけです。そのような欲求や判断を「正しい」としている社会システムが、民主主義や資本主義だと思いますが。それでは、この大きな社会を適切に運営できるわけがない。あらゆる問題の根っこに、そういう矛盾があると思っています。

 我々は、ファミチキやコカコーラやストロングゼロは恐れずに、川や蛇や、そしてクラスで仲間はずれにされることを恐れるわけです。前者の方が、よっぽど実害があるのに。

 仲間はずれにされることを恐れるから、死ぬような思いをしてまでも、自殺の危険があるのに、学校や会社に行くわけです。そこに行かずとも、飢えて死ぬことなんか、現代日本では有り得ないのに、仲間はずれにされることは死ぬレベルのことだという、数万年前の本能に従ってしまいます。なんとも不便な脳味噌ですが。またあした。

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