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人生詰んだ、と田舎の人は思わない

 いつも考えながら書いているので、まとまりが無くなることもありますが。という言い訳から始めたのは、どうも、今日の話も、まとまりようが無いなと思いながらも、書き始めているからですけど。

 お金について、です。お金というシステムの問題がいろいろあると思うんですが、とりあえず、羅列していきますが。

 まず「労働力」にしか価値がつかないこと。

 資本論でも、商品の価格の源泉は「労働力」だとあります。一方で、たとえば水とか鉄鉱石とか石油とか、そのモノ自体は、価格がゼロなんですね。「タダで湧いて出ている」ということです。

 そうしたら、どうなるかっていうと、資源の無駄遣いであり、環境破壊であり、それがゆくゆくは人類自体の首を絞めることになる。ドバイが、ただ石油が出るというだけで、あれだけ発展しているのを見て、おかしいと思わない方がおかしい。どう見ても、まともじゃありません。


 この話は、以前、書いたことがあると思うけど、僕は、資源にマイナス価値をつけるのが良いと思っています。言い換えれば、地球環境から「資源を買う」というように、地球環境を市場に組み込むということ。

 もっとも、地球環境は発言できないので、誰かが代弁して、価格交渉なりしなきゃいけないんですが。そして、地球環境が得たお金を、環境維持のために使う。

 なぜこういうことが必要かというと、人間も地球環境の一部だからです。我々も、地球上に生きる動物の一つであり、別にそれはスピでも環境派でも左翼でもなんでもなく、事実、当たり前にそうです。火星で生きられるわけじゃないんだから。

 水槽の魚だったら、水槽の水質に気を配ろうよ、ぐらいのこと当たり前のです。お金は、「お金を使える者」、つまり人間だけを取引相手にしているから、労働者以上に搾取されるのが、お金を使えない動植物とか地球環境です。だから環境は汚染され、動植物は絶滅していく。


 お金の目的は何かというと、取引です。なので、お金を理解しない取引相手は、不利な取引になる。そして、お金は、手段にしか過ぎない。でも、その手段が目的になると、本来の目的を果たせない。手段が目的化してしまい、お金それ自体を増やすことが目的になってしまう、というのが資本主義です。

 利子がありますからね。どうしたって、お金は肥大する。その結果、本来の目的である「取引」が果たせなくなる。(キリスト教やイスラム教が利子を禁止していたのは、取引の質を上げて、共同体を守るためだと思います)

 取引は何のために行うかというと、我々が幸福で豊かな生活を、これから子々孫々と続けていくためです。ま、そう思わない人もいるだろうし、「俺は世界征服するんだ」とかいう人もいるでしょうけれども、人類全体の目的で言えば、幸福で豊かな生活を未来永劫続ける、ぐらいが合意できるところだと思います。

 取引は、そのためにある。取引により、互いが得意なことをして、生産効率を上げる。資源を適切に使い、豊かな生活が続くようにする。というのが「やるべきこと」であり、そのために「取引」があり、そのために「お金」がある。


 お金によらない取引には、どういうものがあるか。共同体の信用取引なんていうのも、取引です。共同体の、とかいうと馴染みが無いから、家族内にしましょうか。子供にお手伝いを頼むとか。それも取引。手伝ってもらって助かるわけです。そこにお金は介在しない。

 手伝ってくれたら100円、とかいう家庭も多いですが、やめた方が良いです。理屈で言えば、共同体(家族)の信用を下げてしまうので。それよりは、面倒くさくても、きちんと話し合って手伝ってもらう方が良いです。お金をあげれば楽ですけどね。


 先ほど、石油がタダで湧いて出る、という話もしましたが、環境との「取引」で言えば、多くの社会は環境との取引を適切に行なってきたんです。狩猟採取民族では、西の森で獲物をとったら、1週間はそちらに行かない、などの決まりがあります。

 日本でも、山の上の3分の1は手付かずにしろ、というような昔ながらの決まりがあります(現代は全然、守られていませんが)。それは、環境との取引です。環境に対しては、人間は基本的に、一方的に搾取するだけになりがちなので、せめて、それにブレーキをかけるわけです。


 なぜブレーキをかけるかというと、結局、獲物を取りまくってしまったら、いなくなるから、「未来永劫の繁栄」ができなくなるから。それが分かっているから、ブレーキをかけるわけです。文化は「環境における行動様式」だと、毎度、言っていますが、行動様式というのはブレーキも含まれます。これはしてはいけない、ということです。それが環境に対しても、存在する。

 昔の生活というのは、身の回りに「お金を使わない相手」が、そこそこ、いました。田んぼも畑も森も、お金を使わない。ヤギもニワトリも、お金を使いません。だから、それらと取引をする場合には、お金じゃないものを与えないといけない。

 田んぼや畑は、世話をすれば、それだけのリターンがある。ヤギもニワトリも、そうです。面倒を見れば、それなりに元気になって、リターンがある。というか、まず、価値は自然から生まれるのです。そして、自然との取引は、お金は使われていないんです。

 農業にしろ漁業にしろ、また石油を掘ったりするにしろ、自然との取引が行われる。そして、人間の取引も、本来はお金では無かった。信用による取引です。信用による取引の良いところは、相手のことが分かっていることです。なので、取引の質が上がります。両方が満足する結果になる確率が高い。逆に、信用による取引の良くない点は、信用の無い相手と取引できなくなることです。


 利子について言えば、利子があることで、必ず「破綻する人」が出ます。利子があるということは、世の中に出回るお金を増やさないと、不払いになり、担保が取られるわけですが、お金は勝手に発行できないので、発行者が利子をつけて貸し出せば必ず破綻者が出るという、椅子取りゲームです。

 そのような恐怖があるから、すごく働く。無理して働く。無駄な取引もたくさん行う。結果、無駄に資源を浪費する。ただ、取引が活発になるから、生活は豊かでは無いものの、お金は増えて、発展しているように見える。

 利子があるから、不必要な取引を行わなきゃいけなくなるんです。利子が無ければ、そこまででは無い。キリスト教では、昔は利子を取ることを禁止していましたが、それは「信者同士」で取ることが禁止であり、外部に対しては、構わない。

 だって、利子は共同体を破壊しますから、結果、自分が弱くなる。利子は椅子取りゲームですから、メンバーが少なくなるんです。でも、外部の人が困って少なくなろうが、構いませんから。利子を外部には解放しているんですね。


 ざっと書いたけれども、まずは自然との取引を前提として、そして、本来は「信用」による人間同士の取引を行なって、我々は「豊かで幸福な生活を未来永劫続ける」というのが、まぁ、人類共通の目的に成り得るだろうと思っているんですけど。

 さて、現代の人間は、もう世界中の半分以上が「都市部」に住んでいるそうです。日本だと、感覚的には9割以上は都市の人間でしょう。都市というのは、お金の世界です。だって、お金を理解しない、森とか海とかヤギとかニワトリがいないんですから、取引にはお金を使うしかないじゃないですか。

 昨日、書いたように、都市にいれば「お金が無ければ何もできない、生きていけない」と思うのは当たり前です。だって、誰も取引してくれないのだから。だから、都市でお金と家が無ければ、ホームレスになるのです。

 田舎にホームレスがいないのは、家なんて建てればいいし、何かしらあるし、自然との取引で生きていくための食料を得られるから。「田舎は所得が低いから生きていけない」というのは、都会の人の発想で、全ての取引がお金を介在していると思っているからです。ニワトリを育てて卵を食べようなんて、思っていない。


 お金がすべての都市部で生まれ育って、しかも、そのお金を得る手段も、どこか良い企業に就職して、良い従業員になるという、すごく限定されたルートしか教えられていない。そりゃ、人生詰んだ、って思いますよ。

 受験に失敗したから詰んだ、就職失敗したから詰んだ、コミュ障だから詰んだ、それらは「お金の取引」、それも「就職して給料を得るというお金の取引」という、ものすごく限定された道しか教えられていないし、知らないから、詰んだって思うんです。

 教えられていないものを知らないのは、しょうがないと思いますが。人間はコミュニケーションの動物であり、一人の人間の知力なんてのはチンパンジー以下ですから、自分で他の道を発見しろというのも、酷なことです。だから、せめてこうやって、教えているわけですが。お金を得るためにも、色々な方法はあるし、そもそもお金によらない方法だって良いし、そして人生の目的だって自分で自由に決めればいいし。


 うーん、書こうと思って、なんか今日はいいや、と思ったこともあるんですけど。ざっと書いておくと。お金はフラットな情報だからこそ、全てを「同じ」土俵に登らせる。そして、グローバル化(笑)の新自由主義(笑)では、世界各地の最安値で適切なサービスが受けられる。でも、その裏で、輸送や生産に使う自然資源は0円でカウントされている。だから、スーパーに、海の向こうからやってきたカボチャとかキウイが並ぶことになる。その裏で、環境は破壊されて、自分の首を締めている。

 また、人間の欲望というのは「変なこと」も思いつくのですが、その変なことも、お金というフラットな情報の前では、変とまともを区別できない。だから、変なことも、お金を払えば通用する。

 そこにブレーキをかけるのは、本来は常識の役割であり、法治国家では法律の役割なんですが、民主主義は衆愚政治になりがちで、人気投票になりがち。その結果、目先の欲望を肯定することになりがち。なぜなら、人間は本能的に、身の回りのことしか感知できないから。で、変なことがいつまでも通用する。控えめに言って、やばいです。


 ですからね、僕は、ちっとは人間がまともになるために、お金を介在しない、面倒くさい生活をするのが良いと思っています。お金の通じない、草とか木とか森とかヤギとかニワトリを相手にすること。

 猫ぐらいでも、まともですよ。3000円で買ってきた猫用ベッドに見向きもせず、段ボール箱を愛用したりするでしょう。お金が通用しないから。我々も、ちっとは見習うべきです。自分が良いと思うものを、良いと思えば、それで良い。


 それには慣れが必要だから、自然との「お金を使わない取引」だったり、また、家族や仲間との、お金を使わない信用による取引を育てていくという、面倒くさいことが必要なんです。

 面倒ですよ。人間同士も。お金を払って済ます方が、ずっと楽。人間同士を「信用」でやろうとしたら、すげー面倒くさい。個別に対応しなきゃいけないし、相手のことを知らなきゃいけないし、逆に自分の本性も晒されるし。だから、キッツイ。でも、そういう生き方がまともで、その先に、豊かで幸福な生活が続いていくと思うのです。またあした。

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