台風一過に道を掃く
台風一過ということで、あ、これは昨日(20日)に書いていますけれども。台風が過ぎ去り、さて、どうなったことやらと車を走らせれば、とりあえず落石で通行止め。我が家から20メートルぐらいのところです。道のど真ん中に、バレーボールぐらいの岩がゴロゴロと落ちています。で、こいつを片付けて。しばらく行くと、スギの枝が道をふさいでいます。で、片付けて。という感じで、ノロノロと進み、隣家まで行けばそこから先は、すでに誰かが片付けていたらしく、なんとか町まで行けました。
つい1週間ほど前に、集落全員参加での、道の草刈りをしたばかりなんですが、元の木阿弥というか。コンクリートの路面が見えないほどに、枝葉が積もっています。しょうがないから、片付けますが。我が家から700メートルほどは、ほとんど僕しか通らないので、私道みたいなものです。というか、町道なのか農道なのか私道なのか分からない道って、たくさん、ありまして。我が家に至る道も、誰が何のために作った道なのか分からない。
いや、語弊がありますね、誰が何のために作った道なのかは分かっているんですよ。現場レベルでは。うちの近所で田んぼをやっているおじさんが、40年ぐらい前に、自分でユンボで作ったそうです。ただ、現代社会では「誰が作った」というのは、その予算の出どころであったり、意思決定者であったりします。大阪城を建てたのは大工さんではなく、豊臣秀吉だということです。という意味で言うと、誰が何のために作ったのかは、分からない。
農業のために農水省からの予算で道を作れば農道、になるわけです。自治体の予算で作れば、市道とか町道になるし。自分で勝手に作れば私道ということになるのでしょう。でも実際、この辺も曖昧なのは、うちの近所なんかだと、あそこの田んぼに行くのに便利だからって、先述のおじさんのように、勝手にユンボで道を作る人はいるんですよ。ま、僕もそんなおじさんになりつつありますが。で、便利だからと他の人も通るようになれば、なんとなく、それが町道のような雰囲気になってきて、集落で管理するようになる。
とすると、おじさんが私的に作った道が実質、町道っぽくなっていったりするんですよ。で、こういう道は存在するんですが、書類上は存在していなかったりするので、Googleマップなんかは、あれ、どこから元データを取っているのかわかりませんが、うちの近所なんか道路の半分も載っていませんからね。私道ぽいところは、避けているのかもしれません。うちの私道にも入ってきていないし。
ま、ともかく、そんな私道だか町道だか農道だか分からない道ですが、台風で落ちた枝葉を誰が片づけるべきなのか。もし町道であれば「住民が不便しているじゃないか」と役場に言えば、どこぞの業者に清掃を発注して、ということになるのかもしれませんが。現実、僕しか使っていないのだし、僕が掃除すべきでしょう。というような、田舎民の、ま、しょうがないよね台風だし、という行動力が台風一過の朝に発揮されます。今日も町に降りる道すがら、数人の方が、掃除をしていました。何の義務もないのに。そういうものです。
これは感覚的なものですが、自分たちのことだ、という感覚があるんです。道についても。これは、僕は東京に住んでいたときは、全く感じませんでしたが。自分の家の前の通りを、自分たちのものだ、と感じたことは無かった。家の、本当に前のところは、まぁ、感じますけど。掃除ぐらいしようか、とは思いますけど。50メートルぐらい離れたところを、自分たちでどうにかするべきだと感じたことは、ありません。
今は、繰り返すけど感覚的なものですが、うちから1キロぐらいは完全に、僕の責任範囲。で、同じ集落である、うちから8キロぐらいのところまでも、うっすらと、自分も含めた「みんな」の道だな、という感覚がある。例えば、そこで知らぬ奴が路上販売でも始めていたら、おい待てよどこの誰や、という気持ちになる。でも、10キロ離れて町の中心部、国道まで行くと、全く感じない。自分のテリトリーでは無くなります。
この、自分のテリトリーだと感じる「土地」の範囲が、自治体の範囲かな、と思う。おらが村、ですね。そういう意味で言えば、東京に住んでいるときは、僕はどこの市町村にも所属していなかったし、東京都にも所属していなかったな、と思う。不思議と「日本」には所属している感覚は、あるんですけどね。外国から帰ってきて、成田に着くと、ああ、テリトリーだと、うっすらは感じますけど。ま、少なくともテリトリーの範囲は綺麗にしないといけません。またあした。
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