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モノの世界と、幻想の世界の、バランスをとる

 人間は、食べ物や建物や衣類など、それら実在の「モノ」の世界と、もう一つは共同幻想というか、虚構というか、そういう世界にも生きています。どっちも必要なんですよ。モノが必要なのは言うまでもなく、生物として必要です。食べなきゃ死ぬし、家がなければ寒いです。幻想の方は、人間が100人程度の集団を作るために必要です。

 チンパンジーとか、人間以外の群れを形成する霊長類は、グルーミング(毛づくろい)によるコミュニケーションを熱心に行いますが、そういった物理的なコミュニケーションだと、10個体ぐらいのコミュニケーションが限界だと思います。

 それ以上のサイズの群れを作ろうというときには、言語によるコミュニケーション、そして、共同幻想を作ること、その作用として芸術とか歌とかも発生したのだと思います。ということで、人間は一緒に歌ったり話したり踊ったりしながら、共同幻想を育て上げ、100人程度の集団を作ってきたわけです。

 さらに法制度とか宗教組織を作ることにより、この集団が1万人とか100万人とか1億人になっていった、というのは、毎度、書いていますが。そうなってくると「幻想」の方が大きくなる。モノと幻想、どっちも必要なんですけど、問題はバランスです。モノだけの世界の、動物的な生き方──ある意味、原始仏教的な生き方だと思いますが、そんなのはほとんどの人が無理。一方の幻想の世界に行き過ぎちゃうことも、ま、これは現代社会が典型だと思っていますが、バランスが悪くなる。


 現代社会はモノを軽視し過ぎているから、体を壊すんです。体は、モノですから。一方で、脳は幻想とも言える。ただ、どっちがベースかというと、体です。脳も身体器官の一つですから。単純に、血流が悪かったり、変に脳内ホルモンが分泌されれば、幻想──「気分」も悪くなるわけです。

 かといって、脳が気分良くなるように麻薬ばっかり吸っていても、体がおかしくなる。結局、身体が健康で、気分も清々しいという、当たり前の状態を目指すべきなんですが、どっちかというと身体が軽視されているということです。


 具体的な小さな例を挙げると、貧困にあえぐ人が、激安の焼きそばともやしで過ごしています、みたいな話、あるでしょう。多くの人が、食べ物を手に入れるためには、どこかで「買う」という手段しか持たない。そこでお金を介している時点で、幻想の世界なんですけど。

 じゃあ、モノはどうなのかというと、例えば、日本にはシカやイノシシがめちゃめちゃいます。年間で何万頭も補殺されているし、そのほとんどは捨てられている。お金を払って捨てているような状態です。じゃあ、その肉を貰えばいいじゃないか、というだけのことです。

 野菜だって捨てられている、米だって色味が悪かったり、小粒だったりするものは、家畜の飼料になったりしている。普通に食べられるのに。「モノ」として見れば、現代はめちゃめちゃ豊かです。タダで住める空き家だってたくさんある。

 モノで見たら、現代社会は天国です。でも、幻想としては、天国では無い。幻想だから「相対的貧困」になるわけです。モノというのは、相対的ではありません。絶対的です。立って半畳、寝て一畳の世界です。いくら頑張っても、人の2倍、食べるのがせいぜいです。モノの世界は、その程度のものです。


 生きづらい、苦しい、それはモノを無視するからです。幻想フィルターを外して、モノを見るようにすれば、豊かだし、また一方で、幻想の世界で良いとされるものが良いとも思えなくなる。1万円の料理よりも、玄米と納豆と味噌汁のほうが健康的じゃん、というのが、モノの世界ですから。健康というのは、体の判断基準であり、体はモノですから(もちろん幻想の気分では左右されますが)、モノを大事にすれば、健康的になるんです。食べ物、運動、そういうのがモノの世界です。

 現代は幻想の世界だからこそ、モノの重要性を主張した方が良いと思いますが、最初に言ったように、重要なのはバランスです。モノだけに偏りすぎるのも、いけない。

 やっぱり人間は、幻想の動物ですから。いろいろな物語も必要だし、生きがいという幻想も必要だし、分かり合える仲間も必要。ただ、それも「適度な幻想」が良い、ということです。そして、適度というのも、人それぞれ違うんですよね。体の大小があるように、得意な運動も違うように、幻想も人それぞれ違っていいんです。

 幻想は違っていいんだけど、違うと巨大な集団は、まとまらない。だから、幻想を一つにしようとする。現代社会で言えば最も強いのは「お金」という幻想(宗教)ですが、一方で、愛国心とか宗教という幻想も強いです。僕は、それらの幻想は、ほとんどの人にとっては、デカすぎる幻想だと思っています。身を滅ぼす。なんていうか、全員にマラソンを強制しているようなイメージです。マラソンを走れる人もいるけれども、走れない人もいる。みんなが走れるわけじゃ無い。

 ですから、資本主義が大好きでお金のために生きる、という人がいたって良い。それは、マラソンが得意で大好きだ、というようなものです。そういう人はマラソンすればいい。同じように、愛国心があったり、特定の宗教にすごく熱心になっても良い。ただ、そういう人だ、というだけです。でも、ほとんどの人は、適度な運動が最も心地よいように、適度な幻想が最も心地よいと思います。その平均値が、僕は100人程度のコミュニティだと思っています。

 ま、実は個人的な思いを言えば、僕は自分では、あまり幻想を必要としていないな、と思っています。100人程度のコミュニティというのも、良いけれども、僕はそんなに必要としていないな、とも思っている。あったほうが良いとは思うから、作りますが。これは、そもそも体を動かさなくても、ずっと読書していても健康的な人がいるようなものです。その人は、平均的な「適度な運動」も必要無い。幻想に関して言えば、僕は、自分はそういう性格だろうなと思っています。ただ、適度な運動をしたいように、適度な幻想も作りたいということです。

 僕はそういう性格なので、もちろん、宗教なんて信じられないし、宗教どころか愛国心とか、会社のために働くとか、そういうことも、あまり熱心に思えない。ま、生まれつきそういう性格だ、というだけのことです。一方で、100人のコミュニティなんていうものよりも、地球規模の問題を解決したいとか、世界平和を実現したいとか、キリスト教を世界に広めたいとか、国のために命を捧げるとか、大きな幻想が生きがいとなる人もいる。それも、生まれつきそういう性格なんだと思います。人それぞれ「適度な運動」が違うのと同じように。

 ただ、繰り返しになるけれども、現代社会、というか、現代日本の場合、ほとんどの人が「幻想寄り」になっています。特に「お金幻想寄り」になっていると、思っています。みんながマラソンし過ぎて、体を壊しているような状態だと思います。なので、もうちょっと適度に──適度は、個人によって違うのですが──適度になった方が良い。大抵の場合は、モノ寄りにした方が良い、と思っています。またあした。

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