単語は、確率の雲
山梨弁(甲州弁)で「こぴっと」という言葉があって。「きちんと」とか「ちゃんと」という意味なんですが、ただ、「きちんと」とは微妙に違う。
例えば、これから高級レストランに子供と一緒に行くから「ちゃんとしなさいね」という意味では、「こぴっと」は使わない。
でも、レストランに行って、そこで子供がふざけたりした場に合わない態度をとっていたら「ちゃんとしろ」という意味で「こぴっとしろ」とは言える。現状、ちゃんとしていない状態を、ちゃんとする、という意味です。起こっていないことに対して、(これから)ちゃんとしろ、とは使えない言葉です。
そもそも、方言が今も残っているということは、それは標準語では代替できない意味だから残っているんです。標準語で言えるなら、そう言っています。方言が消えます。消えないってことは、意味が違うんです。
方言ですら、そのように意味の違いがあるのだから、いわんや外国語となれば当然、違う。そして、その外国語を「正しく訳そう」なんていう教育は、いかに意味が無いかと思う。
例えばね、「I have an apple」を「私は(1個の)リンゴを持っています」とか言うわけですよ。いや、日本語でそうは言わないだろう、と。リンゴを持ってそんなこと言うやついませんよ。「りんごあるよ」でしょ、日本語では。直訳すれば「Apple is」です。このぐらい言語というのは違うし、直訳なんて出来るわけがないんです。
言語というのは、どういうように世界を区切るかであり、それは、その文化によって適当に決められています。だから、世の中に、全く同じ意味で訳せる単語は無い。
というか、日本人同士でも、僕が思う「りんご」と、別の人が思う「りんご」は違うことだって、あるわけです。腐りかけのりんごは「りんご」か。リンゴジュースは「りんご」か。リンゴの木は「りんご」か。個人個人だってふわっとしたものなんです、単語が指し示すものの範囲というのは。
確率論的な分布です。絵に描いたような、まさにこれぞりんごという赤い丸い果物だったら、ほぼ100%の「りんご」でしょうが、そのリンゴの中心(イデア)から離れていけばいくほど、りんごの確率が下がる。人によっては、りんごと言わないかもしれないものがある。
小さな姫リンゴとかだと、りんごと思わない人も多いだろうし。りんごの花を見て、リンゴ農家だったら「りんご」と思うかもしれないけど、ほとんどの人はりんごと思わない。りんごである確率が低くなる。確率の雲の外縁部です。
というように、それぞれの単語が指し示す範囲というのも、確率の雲のようにふわっとしたものであり、明確になっているものではない。同じ日本語を話す母語話者同士でもそうです。
そのような、ふわっとした言語の中心を定めようとするものが「辞書」です。そして「国語」が生まれます。国語というのは、話が通じるようにするためのものなんです。なぜなら、普通、人間は話が通じないからです。ずっと一緒にいて、なんとなく意思疎通ができる程度のものです。それこそ、数十年一緒にいて、やっと、意思疎通できるかというレベルです。
それぞれの家族で、家族内でしか通じない言葉ってあるでしょう。例えば、今、うちでは子供に「ヤギかえといて」と言うんですけど、分からないでしょう。
これは、子ヤギが2匹いて、2匹とも自由にすると2匹でどこか行っちゃうから、1匹だけ杭につなぐんです。そうすると、もう1匹はその周りで草を食べている。でも、杭に繋がれていると、やっぱり草の食べる勢いも悪いから、時々、杭に繋がれているヤギを、もう1匹と入れ替えるんです。それが「ヤギかえといて」です。
それは家庭内という小さな環境において、情報伝達のために共有されている言葉です。本来、言葉というのは、関わりがある人の間だけで使われていれば、それで良かった。環境が固定されていて、コミュニケーションをとる相手も固定されていれば、必要な単語数は少なくなります。それぞれのコミュニティの中での情報伝達に使われる音声パターンが、言葉です。で、社会が広がってくると、言葉が変わってくる。環境が変わるからです。
明治期に「国語教育」が必要だったのは、その時点で「日本語」を作る必要があったから。それは、日本国を作ることであり、日本人を作ることです。
青森と鹿児島じゃ話も通じない。実際、薩摩と陸奥という違う国だったんです。それを、一緒のコミュニティにするということは、一緒の言葉をしゃべるということです。だから、国語の教科書で「さいた さいた サクラが さいた」とか、青森でも鹿児島でも言うわけです。桜なんか無い土地だろうが、さくらが咲こうが咲くまいが、そう言うわけです。日本中に桜を植えるんです。
さて、現代のコミュニケーションにおいて、どういう問題が発生するかというと、社会は「グローバル化」により、より広くなっている。英語でやりとりする。また、メールやLINEでやりとりする。そのようなやりとりは、コミュニケーションの質を下げます。だって、そもそも違う社会背景を背負っている人同士が、同じ単語の「意味」を分かり合っているはずが無いんですから。
何が言いたいかというと、言葉というのは、ふわっとした確率の雲であり、個々人でも確率の範囲は違うし、ましてや外国語で喋るとなると、そのズレが激しくなります。そのようなコミュニケーションで、誤解が生じまくって、お互いに「気持ちが通じない」と嘆く。言わずもがなで通じると思ってしまう。以心伝心があると思ってしまう。
この、以心伝心があると「思ってしまう」のは、本能的なものであって、密なコミュニティだったら通じるんですよ。仲の良い親子とか兄弟とかなら通じるし、遺伝子は、そのような関係性を本能的に想定しています。しかし、もちろん、我々の生活はそうでは無い。知らない人、関わりの薄い人と関わることの方が多い。
だったら、そのギャップを埋めるためには、言葉を交わしまくって、しゃべり倒すしか無いんです。それでも、確率の雲ですから、誤解は絶対にあります。でも、そのふわっとしたもので埋めるしか無い。
なのに、現代の教育は、しゃべらずに、喋り言葉よりももっと情報量の少ない「文字」で教育し、どうにかなると思っている。英語を話せるようにして国際人にしようとか、意味不明なことを言う。言語がそもそも、文化と結びついた「ものの見方」であり、個人個人で違うものだということなんて、夢にも思っていないから、そんなことを言うわけです。
英語よりもはるかに「国際的な言語」はすでにみんな、学校で習っていて、それが数学です。数学は言語の一つです。最も論理的な言語。1+1=2における、1という単語の「確率の雲」は、かなり小さい。
本当は、1ですらはっきりしたものではなくて、1とは何ぞや、って話もあるんですが、ま、ほとんどの人が1については同意がある。そして、+や=についても、大体の人が同意がある。少なくとも「りんご」や「お金」や「愛」や「日本」というものよりは、確率分布が小さい。収束している。だから1+1=2という数式は、地球上ほとんどの人間に対して、同意が得られるのです。
結局、話そう、おしゃべりをしよう、それを延々と積み重ねよう、それでも理解し合うのは難しいけれども多少はマシになるから、ということです。
話し合いじゃ何も解決しない、なんてことも言われますが、話し合いが足りないんです。お互いに、話し合う訓練もしたこと無いから。
ディベートでは無いんです。あれは話し合いでは無い。あんなもの、やるだけ人間がダメになる。相手を打ち負かすことではなく、理解し合うための話し合いを、言葉は不完全な確率の雲であり、誤解だらけだという前提のもとで、積み重ねるしかないと思っています。またあした。
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