才能よりも幸運が人生を左右する
本日、9月28日は祖父の誕生日でして。1919年生まれなので、生きていれば103歳ですか。もう20年ぐらい前に亡くなっていますけれども。その世代の御多分に洩れず、戦争にも行っており、中国で砲兵として働いていたそうです。
なんで砲兵になったかっていうと、背が高かったからだそうで。祖父は当時の人にしては珍しく、180センチ近くあったんですよ。で、大砲ってのは馬に乗せて運ぶんですね。馬に乗せるんだから、背が高い人の方が乗せやすいだろう、ってことで、背が高い人が砲兵をやらされたそうです。ってことで、馬に大砲を上げ下げしながら、ひたすら中国を歩き回っていたという戦争体験。
ちなみに、当時の風潮で「天皇陛下は神様だ」みたいなのがあった、と、教科書や本では言われますが。僕の祖父は、なんかね、顔が昭和天皇に似ていたそうなんですよ。で、あだ名が「宮様」だったんですって。宮様、宮様、って呼ばれていた。そんな状態で「天皇陛下が神様」も何も無いもんだと思います。ま、ごく普通の、我々と同じような、ちょい陽キャのノリだったんでしょう。
僕は祖父母と同居していたので、戦争の話もいろいろと聞いていたんですが。祖父は目が悪かったので、メガネをかけていたんですが、メガネを外すと全然、見えなくなってしまう。普段なら、メガネが壊れても買い換えれば良い話ですけど、異国での戦争ですから眼鏡屋に行けるわけもなく。すなわち、メガネをなくしたら目が見えなくなる。そしたら、ほぼ、死が確定ですよ。ってことで、メガネは命そのもの、みたいなテンションで、これが無くなったら死ぬと思っていたそうです。
戦地に持っていった替えのメガネが一つだけ。で、かけているメガネは寝る時もずっと付け続けていたそうです。そりゃ、枕元に置いて踏まれたりしたら、終わりですからね。当時の祖父は二十代前半だったでしょうが、そんなこんなでメガネを掛け続けてなんとか生き延び、日本に帰ってきて見合い結婚して僕の母親が生まれ、孫も生まれて、ま、そのうち一人はこうやって山奥で生活しているわけですが。人生なんて、そんな偶然の積み重ねだなぁと思います。
今年のイグノーベル賞を受賞した研究で、「才能よりも幸運が、資産形成に影響する」というものがあって。コンピューターシミュレーションで、とある集団を作って、資本主義社会でどう才能が影響するか調べたんですって。その世界の「才能」は、「幸運イベント」が起きた時に資産を増やせる、というもの。すごく増やせる人が「才能ある人」であり、あまり増やせない人が「才能の無い人」、という才能を分布させたんですよ。ベルカーブの正規分布で。当然、才能のある人・ない人は、現実と同じく少数派で、大多数は「普通の人」です。
その世界では「幸運イベント」が起こると、資産が増える。逆に「不幸イベント」が起こると、資産が半減する。で、どうなるかとシミュレーションしたわけです。結果、最も資産が増えたのは、「最も才能のある人」では無かった。大体のケースでは、最も資産を増やせたのは、ごく普通の人だった。その「普通の才能の人」は、たまたま、幸運イベントにめっちゃ巡り合い、不幸イベントに遭わなかった。単に幸運だったんですね。最も幸運な者が、最も資産を築けた。
この実験に説得力があるのは、パレートの法則という、20:80の法則にも則ったんですよ、結果的に。全体の資産の80%は、20%の人に集中した。現実世界も同じようなもの、というか、実はもっとひどく格差は拡大していますけれども、ともかく、ある程度は現実の格差を象徴するような結果が出た。で、そのような結果を出した「資産ある人」は、才能ある人ではなく、幸運なイベントに多く遭遇した人だった、という実験です。
もちろん、才能のある人が幸運なイベントに遭遇しまくる、というのが、最も資産を多くするでしょうが。アマゾンやテスラのように。ただ、大多数の人は「普通の人」であるから、幸運なイベントに遭遇する幸運な人は、普通の人である確率が高いです。だから大抵の場合は、最も資産形成した人は「幸運な普通の人」なんです。実際、この世界は「運」が大半を占めているのかもしれない、それを示した面白い実験だと思います。
ちなみに、現実世界でも、金持ちになる王道は、失敗を繰り返しても気にせずチャレンジしまくることです。シミュレーション実験では、イベント(幸運・不幸)の数は決まっていますが、現実世界では決まっていないので、イベントを起こせば起こすほど、幸運が舞い込む確率は上がる。下手な鉄砲、数打ちゃ当たる、です。現代社会では、失敗を繰り返しても死なないので、再チャレンジが何度もできるんですね。ということで、後先考えずにチャレンジしまくる人ほど、成功する確率が高いです。
さて、僕は毎度、本能と現実環境のズレ、という話をしていますが。この、才能か幸運かというのも、ズレの一種かなと思います。というか、これは遺伝子が「意識的にズラしている」と言ってもいいかもしれない。数万年前から、そもそも、ズレているんです。その方が便利だから。
我々の感覚は、現実世界をそのまま理解するものでは、ありません。視覚にしたって、ズレているから「錯覚」が起こるんです。感覚入力されたデータをそのままデジタルに理解するのではなく、脳は一度「意味づけ」して、理解するんです。だから、意味あるものは見えるし、聞こえる。外国の空港の雑踏の中でも、日本語が聞こえると、パッと聞こえるんです。それは我々が日本語を意味づけできるからです。
外部環境をそのまま「正しく」、デジタルに理解するよりも、意味づけして理解した方が生存有利になります。意味のない雑音や景色を情報処理するよりも、そこは放っておいて、意味あると感じるものだけを情報処理した方が良いんです。脳はそういう機能を持っています。で、話を戻して、才能と幸運ということで言えば、おそらく、現実世界を左右しているのは「幸運」です。ランダムです。でも、そう思ったところで生存有利にはなりません。才能や努力が「意味ある」と思って行動する方が、生存有利になります。
実際、多少は有利になるんです。多少は、ですよ。おそらく。でも、人間がどうにかできるのは、その「多少」の部分だけであって、大半はどうしようもない運・不運によって決まってしまう。だから、そこは盲点のように近くできない。人間は「運」を知覚できないし、動かせないのだから、見えないし、感じられないようになっているんだと思います。
そもそも、80年前にうちのじいさんがメガネを無くしていたら、僕はこの世に存在していないわけで。そんなものです。みなさんだって、そんなものです。なんかの偶然の結果、生まれているだけであって、そもそも、生まれたことは努力とか才能とか何の関係も無い。現実の仕事や収入だって、ほとんどは偶然の産物だろうと思います。
ということで、現実は運が大半を占める世界ですが、書いたように、そう言ったところで身も蓋もない話であり、我々の脳は、そんな現実を見てもしょうがないと思うので、「才能」や「努力」が大切だ、と感じて、世界を理解するようになっているんだと思います。
ま、その世界理解で問題なければ、それでいいんですよ。努力して悪いことは無いし。才能を伸ばして悪いことは無いし。ただ、その弊害というか、自分は努力が足りないとか、才能が無いからどうしようもないとか、そこでドツボにハマって不幸になってしまうようであれば、いや、そうじゃなくて、現実は「運」が大半を占めるんだよという現実を直視することは、生きることが楽になる、助けの一つになるのではないか、と思うのです。またあした。
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