見出し画像

叔父さんたちの戦争の話。

 センザブロー叔父さんは、母方の5人兄弟姉妹の三男、末っ子で、ボクは子どもの頃から「センちゃん」とお呼びしています。
 
 センちゃんから、初めて叔父さんたちの戦地の話を聞いたのは、長兄エイゾー叔父さんが亡くなって数年後の2年前の夏、次兄リンゾー叔父さんの葬儀の時の事でした。
 久しぶりに会ったセンちゃんと、食事をしながら聞いた昔話です。
 
☆ ☆ ☆
 
 戦地での事は話したがらないお兄さん達だったそうです。
 が、好奇心旺盛、終戦当時、中学生だったセンちゃんは、せがんてせがんて、尋ねて尋ねて、戦地の事、
 
やっとこさ、聞き出したんや…
 
☆ ☆ ☆
 
 「センちゃん、大きなったな…」
 
 玄関先にいた、当時、中学生になったばかりのセンちゃんに声をかけたのは、長兄のエイゾー叔父さんでした。
 
 日本には、エイゾーさんが所属していた部隊は、激しいと伝えられたビルマ戦線で『玉砕』との情報が入っていました。
 
 他の日本の方々もそうだったのでしょう、個々に戦死の知らせはなくとも所属部隊の『玉砕』、家族は皆、エイゾーさんの生存をあきらめていました。
 
 ところが、エイゾーさんは終戦から二年後、痩せ細った姿ではありましたが、ひょこっと帰ってきたのでした。
 
 生きて帰って来た!

 祖母は、涙を流して喜びました。
 ボクは、母から、その時の話だけは聞いたことがありました。
 
 戦地ではエイゾーさんは、衛生兵の一番下っぱ。
 
 最前線を陸軍中将が率いていましたが、その中将が腸チフスを患い、後方へ移動となりました。
 その移動の付き添いとして、一番下っぱのエイゾーさんが選ばれました。
 中将と共に後方に移動した直後、エイゾーさんの所属していた部隊は『玉砕』いたしました。
 
 
 
ボクたち戦争を知らない世代に『戦死』は、爆撃などで 一瞬のうちに命を失うイメージがありますが、ビルマ戦線では、熱帯での不衛生な環境での腸チフスやマラリアの流行、治療もままならない状況での激しい戦闘、病に苦しみながら 命を落とした方も多数いました。
 エイゾーさんが命拾いしたのは、皮肉にも、皆を苦しめた腸チフスに 中将までもが感染したからでした。
 
 
  劣勢になり後退敗走する日本軍に、中国軍は容赦ありません。
 
  川岸からの掃射を避けるように、夜の、大きな川の中央を 身一つで浮かび、ただただ当たらないよう願いつつ、川の流れに 身を任せながら逃げることも。
 
 いよいよチリチリバラバラで逃走、最後という時に、各自、手榴弾を2個ずつ渡されました。
 
 一つは攻撃用、残る一つは自害用。
 
 後に、戦死者の骨がいたるところに転がった『白骨街道』と呼ばれた道筋を、エイゾーさんは、ひたすら徒歩で逃げました。
 
 
 
 途中、腸チフスで苦しみ、動けなくなった日本兵と出会いました。
 
 その日本兵は、手榴弾を、もう持っていません。 
 
「苦しい、死にたい、手榴弾をくれ」
と頼まれても、自分の分が無くなるので、渡すわけにはいきません。
 
 エイゾーさんは、その兵士を置き去りに、逃げるようにその場を立ち去りました。
 
 
「戦死には、野垂れ死もあるんや…」
センちゃんは、しみじみと言いました。
 
 
 エイゾーさんは、タイのアユタヤ辺りまで逃れたところで終戦を迎えました。
 それから、エイゾーさんに復員船の知らせが届くまで、約2年の月日を用しました。
 
 農家の作男として拾われて、日本へ帰ることを とっくに諦めて過ごした、長い長い二年間でした。
 
 
 
☆ ☆ ☆
 
 次兄のリンゾー叔父さんは、これも激しい戦闘があったと伝えられる華北戦線、敵方に毛沢東率いる八路軍と言う部隊が 活躍していました。
 八路軍は、中国共産党最強と言われた軍隊で、昨日今日集まった、武器の扱いもままならない人の寄せ集めにかなう相手ではありません。
 華北戦線で八路軍と出会うこと、それは『玉砕』を意味していました。
 
 日本に対しての中国軍は、共産党と国民党が共闘していました。
 
 リンゾーさんの部隊が投降した時、その相手は国民党でした。
 不幸中の幸い、リンゾーさん達は国民党の方に捕虜として捕らえられたのでした。
 
「蒋介石に助けられた…」
 リンゾー叔父さんは、よく、そう言っていたそうです。
 
 もし、投降した相手が八路軍だったら、たとえ捕虜になって、その時生きていたとしても、
「生きて、日本に帰れることはなかったやろ」
センちゃんはそう言って、話を締めくくったのでした。
 
☆ ☆ ☆
 
 ボクは子どもの頃から、
 
叔父さんたちは戦争に行ったことがあるんやで
程度しか聞かされていませんでした。
 
 叔父さん達は、何も話しませんでした。
 
 子供らに聞かせたくなかったのか、思い出したくもなかったのか。
 
 センちゃんが、二人の兄が亡くなってから口を開いたのは、兄さん達と一緒に長年抱えていた重たい荷物、ようやく その荷物を降ろして、お兄さん達とセンちゃん自身の『戦後』を終わらせたのかもしれません。
 
 センチャンは80台後半、今も元気です。
 もう70年も前の話、思い出し出しで、記憶違いもありそうですが、美化もせず、しっかりボクに伝えてくれました。
 
 貴重な話を聞かせてもらって、センチャンに感謝しています。
 
そしてボクも、語り継いでいかないといけないと思います。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?