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となりの席は、バリニーズ。

 かれこれ四半世紀前の事です。
 
 好きなユーミンの曲『スラバヤ通りの妹へ』、その歌詞に、
♪少しの英語だけがあなたとの架け橋ならさびしいから…  
 
 旅仲間とバリ島行きが決まって、その歌詞を思い出し、せめて 挨拶や簡単な会話はできるようにしておこうと、インドネシア語を少し勉強していきました。
 
 バリ滞在は2日間、緊急帰国となったヒコーキの、隣の席に 座っていたのは、バリニーズのスダナさんでした。
 
 スダナさんは、日本語はもとより、英語も話せませんでした。
 
 今から思うと、スダナさんと知り合えたのは、ユーミンのおかげなのかもしれません。
 
 
 
 
☆ ☆ ☆
 
 父が脳梗塞で倒れた時、ボクはバリ島にいました。
 
 初めて訪れたバリ島、ツアーにセットされていた初日の市内観光を終えて宿に戻ると、日本から連絡があったらしく、
 
『おとうさんがびょうきです』
それだけのメッセージがフロントに届いていました。
 
 大阪の実家に国際電話、誰も出ません。
 
 生憎、神奈川県の兄の家の電話番号は控えてきていませんでした。
職場へ連絡しても、何も連絡が入っていませんでした。
 
 たまたま、スケジュール帳に祖母の葬式の時にメモした 母方の実家の番号が走り書きしてあったのを発見。
 母方の実家に事情を話して、兄の家の電話番号を聞き、ようやく、義姉に連絡が取れました。
 義姉にも、父の詳しい容態までは、まだ連絡がない状態でした。
 
 ホテルへメッセージを残してくれたのは兄でした。
兄は兄で、ボクの居所を探すのに、大変苦労をしたそうです。
 
 まだ、携帯電話が普及するずっと前の話です。
 翌日、一緒に来た仲間と別れて、一人で帰国となりました。
 
  当事ガルーダインドネシア航空には大阪への直行便は無く、 福岡へ週に2回、名古屋へ週に3回フライトが組まれていました。
翌日の福岡行きの便がとれました。
 
 翌日の朝、空港で出国手続きを早めに済ませて、出発ゲート付近で一息ついていた時、突然、放送で名前を呼び出されました。
 
 何事かと訊きにいくと、ダブルブッキングがあって、お前は その便に乗れないから、『再び入国せよ!』と。
 
 仕方なくインドネシアへ再入国し、預けた荷物を返してもらうため、ガルーダのカウンターで待っていたら、
『もう荷物は出せない。 明日、名古屋から福岡へ取りに行けないのか?』と言い出したもんだから、
 
『そっちが大阪へ荷物を送れ! それに、今日の着替えとかは、どうしてくれる!』と一悶着。
 
ところが、話が解決する前なのに、突然笑顔になった彼は、
『乗れることになった。 おまえは、ラッキーだ!』と。
 
 
 
  何がラッキーや!
 
 腹を立てながら、でも、怒って文句言っている場合じゃなくて、搭乗時刻も迫っていて、イライラしながら再び出国手続きに 並んでいると、今度は中国人女性が横入りしてくるし、やっと乗れた時に、ボクはもうヘトヘトになっていました。
 
 
 スダナさん一行は、その、やっと乗り込んだ飛行機の 隣りの席に座っていました。
 
  飛行機に乗るのは、初めてのようで落ち着きません。
 
 まるで、子供のようです。
 
  旅に出る前に、少しインドネシア語を覚えていきましたので、こちらが話せると分かると、とたんに目を輝かせて話しかけてきてくれて、休む暇を与えてくれませんでした。
 
 スダナさんに英語は通じなかったので、難しいところは、たまに回ってくる日本人のフライトアテンダントさんに教えてもらい、 なぜ、スダナさん一行が、この飛行機に乗っているのか? 事情を尋ねると、福岡のニシアリタというところの、首長に 招待されての来日でした。
(何か国際的な催しへ招かれているようでした)
 
  ボクも、父が病気で、帰るところだと伝えると、自分のことの ように心配してくれました。
 
 
 日本へ向かう旅はこれからなのに、機内食で残したパンを、 持って帰ってもいいか?と聞かれました。
 
 ティダ アパアパ(問題ない)と答えると、とても大事そうに 紙で包んでいたのが印象的でした。
 
 
 ボクたちは中央の座席で、福岡近くになって日本が見えてくると、スダナさんは、通路へ立って、一生懸命窓の外を見ようと背伸びをしています。
 
見かねて、窓側に座っていた女性2人組に、着陸まで代わって あげて欲しいとお願したら、快く引き受けてくれました。  
 その女性達は、ボクが彼らの引率者だと思っていたようです。  
 
 スダナさん逹はインドネシアでは席を代わってもらえるなんてありえない事だと、感激していました。
 
でも、ボクもスダナさんのおかげで、ヘトヘトになっていたのが 不思議なくらい、あっという間のフライトでした。
 
☆ ☆ ☆
 
 帰国して、すぐに父の病状などを日本語とインドネシア語と英語で手紙に書きましたが、返事が来たのは、2年後、デンパサール在住でヌサドゥアのHOTELに勤めるスダナさんの弟、ムリアナさんからでした。
 
ムリアナさんは、英語と、日本語が少し話せました。  
 
 働いているHOTELへ電話をかけムリアナさんを呼んでもらい、 話すことができました。
 その年バリへ行き、ムリアナさんに、スダナさん達が住むタバナン県のバンタス村へ車で連れて行ってもらい、スダナさんと再会できたのでした。
 
 その後、毎年のようにバリへ行きましたが、旅仲間たちが 転職をし、ボクも結婚をし子供もできて、海外へ旅することも 無くなってしまいました。
 
 また、恥ずかしながら、インドネシア語の辞書を引っ張り出してきたりが億劫で、手紙を書く事すら遠のいていました。
 
 
 
 
☆ ☆ ☆
 
約10年前の夏。
 
 仕事で知り合った似顔絵作家の笑達クンが、似顔絵を描きながら世界中を旅する、そんな企画を知りました。
 
 インドネシアにも立ち寄るそうなので、バリに足を運んでもらい、スダナさんへの手紙の配達と、スダナさんとその家族の笑顔を 描いて欲しいと、お願いしました。 
 
 笑達クンは、快く引き受けてくれました。


笑達クンの旅の様子は、彼のHPでご覧ください。

http://and-nigaoe.jp/nikki/2012/12/19/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%8d%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%80%80%e3%83%90%e3%83%aa%e3%80%80%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%82%b9/


 笑達クンはバリ島―タバナンを訪れた時、タバナンに住むスダナさんから、手紙と写真を預かってくれていました。
 
 その写真は、ボクが初めてタバナンを訪れた時、たまたま近所で日本の七五三のようなセレモニーがあり、スダナさん達がそのお宅へ演奏しに行く際、一緒についていった時の写真でした。
 
 村の人たちにも、ほとんど英語は通じず、ボクも片言のインドネシア語でしたが、彼らはとてもフレンドリーに接してくれました。
 
 
 セレモニーでは、演奏する村の人たちの真ん中、太鼓をたたくスダナさんの横に座り、ガムランに包まれました。
 
 『聴く』より、全身で感じる、音が体を通り抜けていく、とても    貴重な経験をさせてもらいました。
 
 スダナさん宅に戻っても興奮冷めやらず、ムリアナさんに、素晴らしかった、感動したと伝えようとしたのですが、インドネシア語と日本語と英語と、自分でも何を喋ってるのか判らなくなってしまい
「カトーはコンヒューズしてる、少し休め」 
と諭されてしまいました。
 
 
 似顔絵作家、笑達クンにはとても感謝しています
彼は長い旅の間、ずっとその手紙と写真を持ち続けてくれたのでした。
 
 
 その旅をきっかけに、バリに住むムリアナさんの息子とFACEBOOKでやり取りをするようになり、今は、画像でバリの様子も楽しめるようになりました。
 
 
 
 また笑達クンが訪れた時、バリを離れ単身ドバイのホテルで        キッチンアーティストとして働いていた、スダナさんの息子、 ボクがバリへ行っていた頃は小学生だったGEDEクンと、メッセンジャーでのやり取りが始まりました。
 
 やり取りをするうち、GEDEクンがご両親に日本への旅行をプレゼントしたいと知りました。
 
 ボクとの再会もさることながら、その旅の最大の目的はスダナさんが日本へ招待された時の、佐賀県西有田町の方々と再会でした。
 
  親孝行な彼のプランにぜひ協力したいと思い、ネットで調べてみて、平成5年に佐賀県西有田町(現在は合併して有田町)で行われた「田植唄アジアフェスティバル」(農業祭)へ招かれていた事がわかりました。
 
 GEDEクンはメッセンジャーで
 
my father said that event was so nice. He took some picture and I saw it. He told me a lot about Japan especially in Nishiarita and the people as well. Japan is beautiful country and the people are very friendly.
 
と、記してきました。
 GEDEクンに、スダナさん一行がフェスティバルでームステイした先で、お世話になった方の名前や住所の記録が ないかバリへ尋ねてもらいましたが、
 
I asked my father regarding his friends in Nishiarita. He said he forgot the name, but he still remember their faces and he is trying to find the picture and his file about his journey in Nishiarita before. I hope he will find it..
 
との返事でした。
 
 
☆ ☆ ☆
 
 
 ボクは、FACEBOOKで有田町の青年団や商工会などのページへ、突然の尋ね人の投稿メッセージを送りまくりました。
 
 反応は、すぐありました。
 
 ご覧になった有田町の方(有田でタクシー会社を経営している方でした)が、 こちらへ連絡してみては?
と、有田町役場企画課の方を紹介してくださったのです。
 
 
 有田町企画課の方は、当時の資料などを調べ、ホストファミリーや当時のフェスティバルの担当者を確認、早速連絡をとってくれました。
 
 有田町の方々には、大変お骨折りをいただき、感謝しております。
 
 有田町企画課の方は、
 スダナさんの来日が現実となれば、こちらで受け入れ先と交流の場を作る事は可能と考えています!
とまで言ってくださいましたので、何とか実現させるよう、協力したいと思っています。
 
 ただ、円が少しぐらい安くなったとしても、日本への旅費、滞在コストはGEDEクンの想像をはるかに超えていて、プランが 実現するのはまだまだ先になりそうです。
 
 その後GEDEクンは、ドーハ、バーレーンと転々と移住し、キッチンアーティストとして仕事をしています。
 GEDEクンは、バリ島に婚約者がいて、現在、遠距離恋愛中で自分たちの事でめいっぱい、親孝行の話は、まだまだ、まだまだ、先になりそうな感じです。
 
こんなとこは、やっぱりバリ・タイムですね。
 

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