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「批判」と「攻撃」の最大の違いとは?

本日、過去に首相を務めた安倍晋三氏が、
凶弾に倒れ、その生涯を終えました。

私としても、安倍晋三氏に対して哀悼の意を示すとともに、
有形力を行使した民主主義の挑戦に対して、最大限の表現で抗議の意を示したいと思います。

さて、本来ならば、この状況において、
他に紡ぐ言葉もないと思いますが、さまざま思い巡らせた結果、
ある一つのことを言葉として紡ぎたいと考えました。

政治のシビアな現実

今回、有形力の行使によって、安倍晋三氏は倒れました。
本来、このような形で政治家が命を落とすということは、
あってはならない一大事であると考えます。

それと同時に、本来、政治とはこういうものなのかというシビアな現実も感じています。

戦前に暗殺された、「平民宰相」原敬

例えば戦後においても、社会党の浅沼稲次郎氏であるとか、民主党の石井紘基氏などが、凶行によって命を奪われています。
戦前においても、首相経験者や現役首相がテロリストの凶行によって、倒れることが多くありました。

さらに遡ってみれば、幕末の尊皇攘夷派による井伊直弼暗殺もありますし、
現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の時代である鎌倉時代においても、現代のテロリストとは毛色が違うにしても、政敵を有形力で排除するという手法は、多用されてきた歴史があります。

言論に基づいた政治とは、持つべき理想であると同時に、
その建前を失ってしまえば、一気に有形力による政治手法を多用させる側面もあるのです。

盤石に見え、当たり前のように見える言論の自由ですが、それは本質的には、脆弱な基盤に成り立つものなのです。であればこそ、政治においては有形力を用いないという確固たる建前が必要となるのです。

批判という行為の「攻撃性」

しかしそこで、一つの壁にぶち当たります。
言論の自由においては、「批判」も付きものであるからです。
ネットの言論空間においても、政敵への批判は日々溢れており、
それはもはや、当たり前の光景です。

ただ、批判というものには攻撃性が伴うことが常でもあります。
「批判」という、言論の自由に必要不可欠な行為と、
「批判」という、他者に対する攻撃性は本質的に矛盾し、複雑に絡み合います。

言葉でも、人は人の命を奪うことができます。
言葉もまた、使い方次第では凶器となりうるのです。
銃弾や刃物だけではなく、言葉もまた、人を殺すには十分な攻撃性を秘めているのです。

では、「批判」をするべきではないのか?

明治時代、新政府を批判して官憲に取り押さえられる「民権派」の弁士

批判には確かに攻撃性がある。批判のやり方次第で、人は人を殺せる。ならば批判というものをなくせば、人は死なない。ということもないと思います。

包丁にしても、人を殺せます。しかし包丁は料理に用いることができます。
火にしても、家を燃やせます。しかし火は、暖をとることに使うことができます。
自動車にしても、電気にしても、創作物にしてもそうだと思います。
言葉に限らず、物とは使い方次第で、誰かを殺すことができるのです。

どんな物であっても例外なく、攻撃性があると言えるのです。
それをいちいち排除していけば、生活が成り立ちませんし。文明が壊れます。批判に攻撃性があるからと、批判自体を無くすということはできないのです。
適切な批判無き社会とは、一部の人間による独裁の世界であり、その独裁は、批判をしない人々に対する攻撃性を発揮するのです。

理性を以て、自身の攻撃性と向き合う

そこで必要なのは、誰かの命を奪いうる「攻撃」と、社会を適切に循環させるための「批判」というものを明確に使い分けることです。
批判という行為の攻撃性を自覚しつつ、それが人の命を奪うことがないように、配慮することが大事となるのです。

しかし理性などは、理想に過ぎない

ですが、それを明確に区分できるほど、私含めた人間という生き物は理性的でもありませんし、むしろ感情の生き物であるからこそ、そのような区分に関係なく、攻撃性を加速させるのが自然と思います。どんなに崇高な理性も、積み重なった感情を凌駕することは無いのです。

だからこそ、理想を抱く必要がある

人間などは所詮、本能の生き物。
どんなに崇高な建前も、理性も、それを抑える完璧な力を持つわけではありません。

理想無き世界とは、まさにこの作品のような世界です。

ただ、理想をそのまま適用できないからと、みなが本能的に生きてしまえば、本能による荒廃はさらに加速し、そこに秩序も平和もないでしょう。

理性や理想という、不完全な建前を、不完全として自覚しながら使うほか、この世界の荒廃を抑えることはできないのです。
それは完ぺきではなく、人の命を必ず救えるというものではないけれど、少しでも悲劇を減らすためには、その不完全な理性に頼るほかないのです。

そもそも「理性」とは何か?

では、その理性とは何なのでしょうか?
如何に、批判と攻撃の境目を設ければ、悲劇を減らすことができるのでしょうか?

これに関しては、絶対的な正解などは無いと思います。
なのでここで述べることは、あくまでも私としての心がけです。
これを誰かに強いるというものではなく、安倍元首相の死に直面しての、私として自覚の部分です。私ならばこう考える、ということに過ぎません。

前提条件に基づく批判

批判と攻撃の境目はどこにあるのか、私としては、前提条件に基づいた批判であると考えます。
より砕いた表現を用いれば、批判に終始しない批判とか、
批判のために行わない批判ということです。

批判と言えば、いつまでも、いついかなる時も、政敵のことを批判することかのような空気を感じますが、私はそれは「批判」ではなく、「攻撃」であると思います。

政敵を批判するとき、例えば政敵が、批判されている内容を改める意思を示した際に、それでも批判ができるのでしょうか?
批判とは、論理に基づくものである以上は、批判をする理由がなくなった以上は、その点の批判を取りやめて、明確に、肯定の意思を示すことが肝要であると思います。

批判をする以上は、その部分を改めてほしいと考えているわけで。仮に改善の意が見られるのであれば、その部分については評価をするのが筋が通っていると思います。

仮に改善の傾向を見せ始めたのに、それでも批判に終始するということは、まさに批判のための批判であり、相手の改善を願っているという意思自体に疑義が存在することになります。
批判の隙を見つけたから批判を行うのか、真に改善を願って批判を行うのか、ここの部分を常に意識することが、批判者としての矜持であり、批判をする責任であると、私は考えています。

批判をする以上は、改善があれば評価の意思を示す。
改善の傾向があった時に相手を認めたくないのであれば、そもそも相手への批判を控える。私はこの気構えが大切なのではないかと思います。

以上、私の考えとなります。

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