「自立」とは何なのか?

親や教育者が、
子供を自立した人間に育てたいという目標を掲げる事は、よくある事だと思う。


しかし、
自立を強いる事、促す事で、
本当に人は自立できるのだろうか?


ボクは、そんな疑問を抱かずにはいられない。

何というか、
モヤモヤするのである。



そもそも、
自立とは何なのだろうか?


weblio辞書では、

1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。

2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。


自立をこう定義している。

2は物質的な話であるから、
精神的自立を指すのは1になる。

他の従属から離れて独り立ち、
他からの支配や助力を受けずに存在する。

ここから考えれば、
大人が子供に対して、
「自立しなさい」と言っているうちは、
子供が自立していない事になる。

何故ならそこに、従属や支配、助力が存在するからだ。

では、
「自立しなさい」
と言い続ければ、
子供はいつか自立するのだろうか?

ボクはしない、
又はできないと思っている。


その理由は、
その「自立」が、
子供自身が選択したものではなく、
大人から押し付けられたものだからだ。


自分で選択していない事を
やり続けるのは非常に困難であるし、
もし仮にやり続ければ、
自尊心が傷付けられ、
自己肯定感は下がり、
やがては精神を病んでしまう
可能性すらある。


自己肯定感が低い状態にある人間は、
決して自立できない。


依存を繰り返すという沼にハマり、
抜け出したくても抜け出せなくなってしまう。



では、どうすれば子供は、
自立を自ら選択できるようになるのか?

そこに必要なのは、
「自立しろ」という声かけでも、
押し付けでもなく、
無言のプレッシャーや、
漏れ出てしまう期待ではない。



本人の人格、意思を尊重し、認める。
大人は子供のサポートに徹する、
その結果、
自尊心は守られ、
自己肯定感が高まる事によって、
主体性のある人間、
つまりは「自立」した人間に
自然となっていくのだと、
ボクは考えている。

自立はあくまでも、
その「結果」でしかないのだ。



例えば教育者が
集団に対して一様に、
同レベルの自立を求める行為も
間違っている、
とボクは考えている。



子供は皆同じではないからだ。


子によって学習のペースが違うように、
心の成長のペースもまた違う。

更に言えば、
家庭環境もまちまちだ。

そんな子供達に、
同じレベルの自立を強いれば、
そこから漏れる子供は絶対に現れる。

漏れた子供に対し
大人がまたしつこく「自立」を促すのだとしたら、それは本当に馬鹿げている。

そんな事をしても何の意味もない。

ただ大人はイライラを募らせ、
子供が疲弊していくだけで、
何も解決しない。

子供に対して
「自立しろ」と言い続ける事は、
大人が意図した目的を達成できないどころか、その逆の結果を生み出してしまう悪手になりかねない。


一方で、
大人の要求通り、
「自立」できている子供は、
優秀な子、できる子なのかというと、
そうでもないのでは?
とボクは思う。

大人だろうが子供だろうが、
人に怒られたりネチネチ文句を言われるのは嫌なものだ。

そして子供は決して馬鹿ではない。

「自立したフリ」をしていれば、
大人が文句を言ってこない事を、
子供は知っており、
「自立」を演じているのである。


演技の上手い子を育てたいのであれば
話は別だが、

大人が求めているのは、
「自立」であり、
「自立したフリ」ではないはずで、
そのフリを見て満足しているのであれば、
その大人は盲目であると言わざるを得ない。

大人の言う事を聞いておけばいい、
大人の望む人間になればいい、
そう考える子供は、
自立しているとはとても言えない。


ただ、大人に支配され、
大人とっての都合のいい子供になっているだけだ。


子供の「自立」という目的を
本当に果たしたいのであれば、
決して焦らない事だ。

個々に目を向け、
それぞれのペースを踏まえながら、
自己肯定感が高まるよう接していく事が、
遠回りに見えるかもしれないが、
唯一の道だと思う。



子供は大人をよく観察しているし、
気持ちを感じとっている。

見せかけだけの
カッコいい風の子育て・教育は
すぐに見透かされ、
ハリボテである事がバレるし、
それによって信頼はいとも簡単に
崩れ去る。


ハリボテの教育を施す大人と、
大人にとって都合のいい人間を演じる子供、まるで狐と狸の化かし合いである。

実に滑稽な茶番に見えるが、
そうでないものの方が珍しいのではなかろうか?







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