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「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」を読み解く

今回は、少し長くなるが、中国に関わる全ての人に読んでおきたい本をご紹介する。正直最初のチャプターだけでも良いと思う。最初に全てのエッセンスが詰め込まれているからだ。

駐在員、駐妻、中国とビジネスで関りがある人、配偶者が中国人の人、とりあえず黙って読んで頂きたい。

正直、中盤〜後半は、スジの日本と量の中国の具体例を挙げているだけで、内容が重複し少々くどい。2018年に出版された本なので、中国マーケットの話も今となってはかなり古い。中国は、特に上海は2,3か月で大きく変化するからだ。それを差し引いても良書中の良書である。

一応NOTEで公開されている同書についての考察等も書きにあげておく。


結論から言おう


日本人は「スジ」(こうあるべき)、中国人は「量で」考える。

以上、これが全てである。はあ?どういうこっちゃねん?

はいはい、では解説しよう。

日本人と中国人で大きく違うところは、

日本は中国に比べて「べき論」が前に出やすく、中国社会では日本に比べて「具体的な量の大小による判断」が優先される。

である。日本人のべき論については、日本人であればすぐに理解できるだろう。要はルールがどうだとか、人としてこうあるべきだとか、あの同調圧力だ。中国人の場合それは全く違う。

中国人的判断の基礎となる「量」とは何かといえば、「これだけある」という「現実」である。
「あるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という現実

著者は、通路を行こうとする日本人と、通路を塞ぐように立って立ち話をしている中国人2人の情景を使いながら説明している。

日本人からすると、通路を塞ぎやがってけしからん、人が通れるように端によるべきだと憤るのに対し、中国人は通路を多少塞いでいるかもしれないが、人が最低限通れる空間は空けているから通れるはずだと考える。

これは、日頃中国で生活していると非常に感じる点である。特に雨の日。傘をさして道を歩いていると対面から来る歩行者と傘と傘がぶつかりそうになる。日本人としては、傘が当たらないよう高く挙げたり、傘を斜めにして当たらないよな工夫をするが、中国人は普通に傘をぶつけてくる(ぶつけるという意図は彼らにはない、あっ、あたったなぐらいの感じ)。

彼らからすれば、傘と傘が当たることなど全くもって大したことではないからだ。日本でそれが起こると下手したら喧嘩になることもある。

私が日本人に中国人と日本人の違いについてよく説明する例がある。例えば、こんな感じである。

細い路地を歩いていたら、向こうから車がやってきた、人ひとりが壁に背を向けてやっと車をやり過ごすことが出来る状況。日本人はその場合、車が通り過ぎるのを待つ、中国人は壁に背中をつけたまま前へ前と進みながら車とすれ違う。(KENの教えvol.1)


細かなことにこだわらない=「量」で発想する


著書は、中国で称賛される人はどのような人かを下記のように著述している。

どの程度(=量)なら人に迷惑にならないかを適切に判断し、臨機応変な行動ができる人が中国社会の「優秀な人」

日本人が常にルールや規範を意識し、理念・理想追求型であるの対し、中国人は現状に即した臨機応変な合理性を重視する現実主義と指摘する。これは、日本人にとって耳の痛い話であろう。

ただ、これが日本人の良さでもあり、商品やサービスの品質に繋がっていることは否定できないし、否定もしない。車の運転などは、教習所の教官が「かもしれない」で常に不測の事態に備えなさい、「急に車の陰から人が飛び出してくるかもしれない、だから少し減速しよう、足をブレーキに乗せておこう」となり、交通事故が中国と比べて少ない原因になっていると考える。

※中国人ドライバーは脇道から優先道路に出てくる際(右折)、優先道路側の左側の状況を全く目視せずにそのまま右折してくる。中国では右折の場合、信号の赤、青に限らず常に右折できるのだが、彼らの運転はとにかく危険。

中国は人治社会か法治社会か

よく聞くのが、「中国人は法を守る意識が低い」という話。これは恐らく半分正しく、半分正しくない。法、というものについての考え方が日中であまりに違う為だ。

中国の人々は強い力を持った統治者が「法」という道具を使って社会を万事遺漏なく管理することを「法治」と考える。「法」が結果的に問題を解決できるかどうかが重要。

つまり、中国では法はあくまで問題解決のツールである、という考え方なのである。ここが見えていないと、中国人の行動を理解することは難しいと思われる。

「法」をすべての議論の前提だと位置づける社会(日本)と、「法」は手段にすぎず、現実の問題解決に使われない限り意味がないと考える社会(中国)の違い


「仕組み」が得意な日本、苦手な中国


これも、あっているようであっていない。そもそも「仕組み」という概念が中国人にはありそうでないような気がする。これはモノづくりの世界にいると強烈に感じることかもしれない。

中国の人々は、世の中や会社の規範よりも、目の前の出来事が「自分にとってどのようなメリットがあるか」を重視
中国人は「この状況をどう判断することが自分にとってメリットがあるか」を上手に判断し、的確に行動する人間を高く評価する。それは「自分のことは自分で管理すべきであって、それができないような人間はロクなものではない」という価値基準につながっていく。

中国人が長い期間同じ会社に勤めないのも「リスクヘッジ」の為(現在の仕事を続けるのがリスクだと考える)であり、日本人が考える「安定」は中国人からすれば「選択肢を一つに絞る」リスクの高いマネジメントとなる。

また、中国で夫婦共働きが多いのは、家族で「リスクヘッジ」を行っているからともいえよう。収入だって、一つの会社で働きながら副業で色々稼げるようにするのも、リスクヘッジの為である。日本では未だに副業禁止の会社が多く、全く正反対である。

◆◆◆◆◆

翻って日本人の場合、「周りの目を気にする」「同調圧力」といったものが存在する。

日本社会では、本来の意味の宗教はあまり普及しなかったが、その代わりに「世間様」という全農の神様がいて、常に個人の行動を監視している。

これである、世間様である。これについては人事コンサルの孔令愚氏の下記のNOTEの分析が素晴らしい。

中国人の「自分は自分をちゃんと管理出来ている」と考えていることによる弊害は多い。社会全体がそのような人が大半を占めている為、彼らの行動を修正するのは非常に難しい。また、誰もがあらゆる問題を認識してはいるものの、「自分は違う」と考え、自己認識能力の低さにつながっている。中国人社員がやたら自己評価が高いのはそこに原因がある。


中国人が重視するもの


会社選びなどは特にそうである。常に、この会社が「自分にとってどのようなメリットがあるか」を考えている為、メリットがない、少ないと考えるとすぐに転職してしまう。

経営に関しても同じことが言える。日本人が「良い店をつくること」を最終目的に考えるのに対し、中国人の場合「よい店をつくることを通じ、企業の価値を上げ、資産を増やそう」という考え方になる。まさに「量」の発想そのものである。「量」が増やせないとなると、すぐに事業をやめてしまう。数年前に急激に普及した後一気に消えてしまったシェアチャリ(共享单车)などがまさにその好例であろう。

また、日本人から見ると中国人は投資に非常に熱心であると目に映る。これも、量を追求する中国人ならではの発想で、中国自体が「投資」で成り立っており、産業振興により社会や人々の暮らしを豊かにし、より多くの税金を払ってもらおうとは考えず、インフラに投資しし地価を上げ、その報酬を得る方が手っ取り早く、利益もでかくなると考えているのである。

よって、このような巨大で不確定要素の多い市場では、日本企業のように細かいところを突き詰めて価値を上げていくやり方では、厳しい戦いを往々にして強いられるのである。


田中氏が考える中国人のメンツ


面子についての考察は下記ご参考。色々な視点があって面白い。

さて、著者が考えるメンツとは下記のようなものだという。

面子とは「”自分が他人より優れている”ことを周囲に認めさせたい」という意識

これは、人事コンサルの孔令愚氏が指摘する「他人からどう値踏みされているのか」と通じるところがある。他にも、

「面子は量の勝負」
面子が大きいとは、その人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。

中国人がよく口にする「没面子」というのは、「自分が他人より優れていない」ことが公の場で証明されてしまう事態なのである。ここらへん面子の文化については、我々外国人はしっかり理解しておきたい部分である。


◆まとめ◆


他にも引用したい話はあるのだが、長くなるのでここらでやめておく。結局この本で著者が言いたいことはおおよそ下記のものであろう。

日本人は「スジ」にこだわりすぎず、融通性を利かせよう(量も見よう)、中国人は「量」ばかり追求せず、「スジ」にも目を向けよう。(技術の蓄積、文化の継承等)









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