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縦横無尽参戦記 in 水戸

熱いうちに勢いで書き残しておく。
(ネタバレあり)


なんかもう、ただただひたすらに歌の上手さに聴き惚れ、一挙一動の美しさに見とれ、夢を見ているようだった。

音の波動が奔流となって押し寄せて来て、その中を漂っているような浮遊感。でも、ドラムの音が心臓に響いて、煽られるかのようにリズムに合わせて自然に動き出す、これは間違いなく私の身体だ。
髪の毛の先まで音楽を浴びている、そんな実感がこみ上げる瞬間の連続。

ひとつひとつのポーズや仕草、表情が目に焼き付いている。
あれやこれやを反芻することもできる。
人差し指を立てて左右に振り、スピーカーに足を掛け、花道の先で壁の脇から客席の奥を望み、しゃがんで膝に肘を付き、ステージ中央で地がすりをめくり上げ、花弁と戯れ、股のぞきしながらわわわ私を指さして歌ってくれた…!
なのになのに、それが何の曲の時だったか…、覚えていない…。
なぜ?!
こんなに詳細を覚えているのに…、
なぜだ!!(泣)

そして、現地ではひたすら圧倒されて、涙なんて出やしない。
後から思い出して…、泣けてくる。
それも不思議でたまらない。
なぜ?
どなたか脳科学的な見地から理由を教えてください(情緒面からはいつの日か自分で解明したいです(笑))。


まず度肝を抜かれたのは、ものすごい進化を遂げていたこと。
ガーデンシアターの時のようなヘロヘロ感がない。歌詞飛びはあれど、1音1音がとても丁寧に歌われている。あの日に歌いきれなかったあの曲を、見事に自分のものにして歌いこなしている。ここに恐るべき進化と、同時にとてつもない努力を感じた。このひとは本当に《眠らないうさぎ》だ。

大きな大きな愛をもらった。
本当はこれで そう 本当はこのままで 何もかも素晴らしいのに
なのにそれだけじゃなくて、このひとはしっかり受け取ってくれる。
「届いてるぜ!」って言ってくれる。
音楽って素晴らしい…。心からそう思った。

こんなにも大きな大きな愛を隈なく振りまいて、会場を幸せオーラで包んでくれて。
それと同時に感じたのは、会場の聴衆からはもちろん、バンドメンバーからもものすごく愛されて守ってもらえているということ。

縦横無尽バンド四天王。
あのセッティングであのグリップで、どうしてあのパワフルな音が出せるんだろう。日本代表ドラマー玉田さんは阿修羅。八面六臂、愁いをたたえた美しい八の字眉。
鋭利で繊細、どんな音色も自由自在、黒髪の美しいギター名人・名越さんは、鬼子母神か吉祥天か。
出番のない曲では気配を消し、かと思うと骨太な重低音を刻むロックベーシスト・キタダさんは黒装束の忍者のようだった。
司令塔、バンマスの小林さん。“東京協奏曲” についてさんざん批判してすみません(汗)。演奏しながらでも客席をとてもよく見ておられて、満足げに微笑み、挨拶の時には両手で何度も客席を指さして拍手。この幸せ空間を一緒につくったんだよ、と言ってくださっているようで、3時間くらい「小林さんのこと好きかも」と思いました。

先週、参戦前に文章化しておきたくて、なぜ若返っているのかを考察したけれど…(「黒い薔薇と白い風が胎動する」をご参照いただけたら幸い)、目の前で見て本当に吃驚した。
“悲しみの果て”、“今宵の月のように” を生き生きと歌う姿。
MVから抜け出してきたかのような若次がそこにいたから。

そうか…、若返って見える理由はここにもあったんだ。
小林さんは行き詰まっていた若次の可能性を理解してくれた人。
「宝石の原石がたくさんある!」と言ってくれた人。
そうか、
だから、可能性を解放するためのソロ活動のスタートに、プロデューサーに小林さんを選んだのだ。
ここにいるのは、はるかニューヨークにまで小林さんを訪ねて行った若き日の宮本なのだ。

ステージ上でのアイコンタクトが印象的だった。
「音楽を通しての会話ができる」とこのバンドについてよく仰っている。そういう確信があるから安心して愛を歌えるのかもしれないな、と思った。このひとにとって音楽とは、他者とのコミュニケーションツールであり、同時に鎧なのだ。

コンサァトができるという幸せオーラと素晴らしいサウンドに圧倒されてしまうけれど、これほどの完成度の高さを維持するためには、妥協を許さないヒリヒリとしたライブ感もあった。

“ガストロンジャー”。
バンドは白い光の下でスクリーンに投影される混沌に溶け込む。ステージ前方で歌うボーカリストだけが、青い光を反射する。“コールアンドレスポンス” のMVを思わせる色だ。自ら発光しているようなその凛とした立ち姿は、真っ直ぐな歌声の中にたしかにいる《ぶっ飛んだ怖い人》を照らしていた。
鋭く厳しくそして美しい。
それが嬉しかった。
プロの歌い手、そして作り手としての矜持が、エレファントカシマシの曲を歌うキラキラとドヤ顔の中に見えた。本当にかっこよかった。

バースデーコンサァトでは、エレファントカシマシの曲をやるのはエレファントカシマシというバンドの紹介なのではないかと感じて、直後にこんな文章に書いた。

新しいファンに対する《エレファントカシマシの名刺》。
代表曲である ‟悲しみの果て”、‟今宵の月のように” 、小林さんと作りバンドメンバー紹介にも適した ‟あなたのやさしさをオレは何に例えよう”。そして、ご新規さんの度肝を抜くための挨拶としての ‟ガストロンジャー”。
「エレファントカシマシは宮本浩次の一部。それを証明しに出かける。」
そのためのソロ活動だから。

‟ガストロンジャー” を聴きながら感じたのは、曲のポテンシャルを試してみたかったのかもしれない、ということ。技巧に長けたバンドの演奏、迷路のようなカオスのような映像、歌詞の投影…、これらの精巧に計算しつくされた演出で歌ってみたらどうなるか――。もしこの推測が正しいならば、この実験は成功だった。ポテンシャルは証明されたと思う。ものすごくかっこよかった。

実のところ、とても不思議な感覚に襲われたんだ。
別人格のようでつながっていて、それを私が消化しきれていないところに、バンドの肝のような楽曲をキメッキメの別アレンジで繰り出されたもんだから、どうやって受けとめたらいいものか、一瞬、困惑したのかもしれない。

「あ、そうか、そうだ。そうだよ。
 このひと、エレファントカシマシの宮本なんだった。」

でも、その不思議な感覚は嫌なものじゃなくて、なんだか心地よかった。
https://note.com/katers_murr/n/n592bc82e1cdf


今回のコンサァトは、違った。
エレファントカシマシの代表曲をやったのは、エレファントカシマシを知ってもらいたいからじゃない。自分を知ってもらいたいんだ、と思った。


『縦横無尽』の曲。
ステージ奥に、今この瞬間の姿が投影された。
たしかに今、目の前にいるのは、今現在の彼だ。
現在と過去が交錯する。

ステージの上には、
ソロのロック歌手でもなく、
ロックバンドのフロントマンでもなく、
宮本浩次がいた。

ソロとは?バンドとは?と考えてきたけれど、このひとはただただ自分の思いを伝えたい、自分の歌を届けたいだけなんだ。
そんな感覚があふれてきた。
そこにいたのは――、
思いを届けたい、歌を届けたい、ひとりの宮本浩次だった。



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