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東京の空

“東京行進曲”、“東京ブギウギ”、“東京ラプソディ”、“東京ララバイ”…、
「東京」を冠して音楽用語を付したタイトルの名曲は古今あるけれども、またまた大名曲が爆誕した。

“東京協奏曲”(宮本浩次×櫻井和寿、作詞/作曲 小林武史)である。


東京という街を舞台に、切なさや痛みを抱え、それでも前を向いて生きていく人々の美しさと力強さを描いた楽曲
        (ap bank リリースより)


とても耳なじみの良いメロディーで、すぐに覚えて口ずさめる。
この「トーキョー」という響きは、音に乗せやすいのではないか、他の都市名ではここまでしっくりこないよね、とツイ友さんと話したことを思い出しながら、《東京》が歌詞にある楽曲…と考えて、すぐに思い浮かんだのはこの2曲。

 突き刺す真冬の風 この東京で
 オレは一体何を見てたんだろう?

     ( “未来の生命体” )

 真っ昼間の東京でオレは空見てたのさ
     ( “ろくでなし” )

宮本の凛々たる発音と自在にして正確な音程も、エレファントカシマシの醍醐味。この2曲や “東京からまんまで宇宙” などを聴くと、たしかに「とうきょう」の響きもエッジの鋭利さに一役買っている感じがする。


そして本稿のテーマ、“東京協奏曲”。
どうにも、禁じ手を使っちゃった感が否めないのです。
「歌とは何か」という大命題。
歌ってやっぱり、言葉とメロディーだから、どうしても生きてくってことと結びつく。
多くのアーティストが、何とかして直接的に具体的に言葉にせずに表現しようと試みてきたこの大命題に、真っ向から挑んでしまった的な。それも理屈っぽく、饒舌に。

小説の表現法でよく言われるが、美人を表現するのに「とても美しい」と書いただけでは伝わらない。目鼻立ち、肌、髪…。美しさを具体的に描く。かと言って事細かに描写すればいいというものでもない。淡泊過ぎず、言い過ぎずに、彼女がまとっている雰囲気を醸し出す。そのためにどういう語彙を用いるかが、書き手の腕であり個性でもある。(以下、歌詞の引用〔太字部分〕は “東京協奏曲” )

 例えることは 難しいけど
 立ち止まるより 歩くより
 彼女は 言うなれば
 踊るように生きている感じだ


言うなれば…? …ている感じ?
正面から挑んでいるわりには歯切れがよくない。
「彼女」という新たなキャラクターが登場する唐突さ。冒頭から「オレ」と「君」を、それはそれは美しいまろやかな歌声で響かせる宮本パートの直後だけに、歌詞がすんなり入ってこない。
東京に生きる人々の群像を描きたいのはわかるけれども、歌い手2人それぞれの目線から歌われる「オレ」「君」「彼女」が瞬間でこんがらがり、2番ではさらに「あいつ」まで絡まってくる。
そこに突然、

 オンリーワンさえ
 もういまはあやしいけど

「オンリーワン」…、何を指しているんだろう…?
ううむ。…難しい。
そして、謎のキーワード「鉄の弦」。
…難解。

その上に、言い過ぎ感。
例えば「失恋した。ああ悲しい、つらい、心が痛い。涙。ああ悲しいつらい。」と歌っても悲しみやつらさは伝わらない。いかにそれらの言葉を使わずにその気持ちを表現するか。それも、淡泊過ぎず、言い過ぎずに。

 この街の
 未来に沁みとなって
 傷となって 誇りとなって

  …
 東京は 夢も 恋も 痛みも
 愛も ポジもネガも 歌に変える

  …
 言葉になれ
 メロディーになれ この場所で

言っちゃうんだ、そこまで。
「歌とは何か」を、この稀代の歌手2人に当て書きして歌わせたい気負いが先立って、理屈っぽくて饒舌なのに具体性がない歌詞になってしまっている(すいません、暴言)。言わなくてもわかることは言わないってのを粋とする江戸っ子の私なぞは、それを言っちゃお終めえよ、と思ってしまうのであります。


東京人にとっての故郷、東京。
バンド30周年以降、ソロ活動も含め旅立ちの歌が多いように思うが、東京人の旅立ちには、プロセスがひとつ少ない。故郷から東京に来て、その東京から旅立つのではなく、いきなり東京から飛び立つから。
東京が、人生の出発点でもあり帰る場所でもある。だが、プロセスがひとつ少ないのは、どことなく切なくてさびしかったりもする。その寂寥感を埋めようとして、江戸時代の古地図を手に街並みを辿る。でも、所詮は江戸時代まで。遡る旅すら短いのが、ここ東京なのだ。(だから、もっと遥かなる歴史を遡りたくて、近くにあった埼玉古墳群に通ったのかもしれない。なんてな。)

先ほど引用した2曲の歌詞には、東京という言葉/土地に、しっかりと足をつけていなければ書けない揺るがなさがある。帰る場所を持たない空虚感、だが帰る場所を持たないが故にここで生きて行くしかないという諦観が、一周まわって覚悟になる。宮本の描く《東京》には、故郷=東京へのそうした深い愛着が籠められているように感じるのだ。


コバタケさんの作詞作曲は、歌詞もメロディーもベタで、言わなくてもわかっていることを言ってくれるから伝わりやすいし、やっぱり言ってほしい人はたくさんいるから、万人に受け入れられて売れるのだろう。
(エレファントカシマシの楽曲は、言ってほしいことを言ってはくれない。宮本が自分自身に深く潜って行き、その自我の底に普遍性があるから響くのだけれど、受け取るにはアンテナが必要。〔このあたりについては「自己肯定の治癒力」に書きました。〕万人がそのアンテナを持っているわけではないところにもセールスの限界があったのだろうと思う。)

とは言え、この2人をハモらせるなんてコバタケさんだからできること。
この素晴らしいコラボレーションにはどんな楽曲が相応しいか。
歌うことで人の心を解きほぐし、包み込み、闇を否定することなく受け入れ、光に向かう力に変えてきた2人。

  エゴとの戦いの中で活動を続けてきた櫻井くんと、
  どこか不器用で、七転八倒しながら歌ってきた宮本くん。

そう考えると「歌とは何か」という禁じ手を使いたくなる気持ちもわかる。
そしてこの2人の共通点は、そう、生粋の東京生まれ東京育ち。東京人には作れない楽曲を、東京人である2人が、東京のど真ん中で歌うという《ねじれた因縁》こそが、コバタケさんの言葉を借りるなら「小さな奇跡」だろう。
でもそれもまた、禁じ手と感じてしまうのです。
ここで櫻井さんという切り札を使ったか、と。
それをあの場所で、あのコンセプトで。そういう狙いすました禁じ手勝負が、‘ビルの角あたりに日本人の情緒感じて嫌’( “未来の生命体” )なわけですよ。


と、言いたいことを(暴言含め)書いてきたけれども、“東京協奏曲” 冒頭の

 オレはビルと空を見ていたよ

宮本の作詞作曲ならば、ここに「よ」は入らずに、先ほど引用した歌詞のように ‘見てたんだろう’、‘見てたのさ’ となるのではないかと思う。独り言なのか、誰かに対して語りかけているのか判然としないような言い方はしない。
だが、この「よ」の響きがそれはそれは美しくて新鮮で。他者による作詞でなければ歌われなかった言葉が、歌の数だけ歌声が生まれくるポテンシャルを切り拓いてくれる。この歌詞のこの響きが、例えば ‘空っぽだけど’ の「ど」とか、‘血を流しても’ の「ても」とか、といくらでも語れるが、そんな眼福ならぬ耳福の喜びが至るところにある。世塵にまみれた心を天使が浄化してくれるようで、その点においては、コバタケさんに感謝です。


でもね(まだ「でも」とか言う…)、

銀座和光の時計台から見渡す大都会に目が眩みそうになってしまったけれど、町を見下ろす丘から眺める武蔵野の光景が、隅田川のキラキラが、やっぱり美しいんだよ。こっちのほうが《東京》って感じなんだよな…。




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