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自己肯定の治癒力

世の中に、応援ソングは数多ある。
落ち込んだ時に励ましてくれたり、泣きたい時に癒してくれたり、立ち上がりたい時に勇気づけてくれたり。
もはやロングセラーと言ってもいい秦くんの “ひまわりの約束” は、いつ聴いてもほろりとしてしまう。琴線に引っかかった竹原ピストルの “オーバー・ザ・オーバー” を毎日のように聴いていたことも。
この夏、テレビをつける度に米津玄師が作詞作曲した嵐の “カイト” を耳にした。TOKYO2020のNHK公式ソングだったから。これを聞いていてわかった。
我らが愛してやまない推しのつくる歌について、以前から考えていたことを書いてみます。


「目覚まし用」とか「気合い入れる用」とか、用途別にプレイリストを何種類か作っているのだけれど(全曲エレファントカシマシと宮本浩次)、そのうちのひとつに「癒し用プレイリスト」というのがある。
それが、癒してくれるやさしい歌で構成されているかというと、まったくそんなことはないのだ、これが。じんわりしんみり癒されたくて選曲したはずなのに、気づけば「ガナリ雄叫びてんこ盛りのゴリゴリロック俺は行くぜ!!」な歌ばっかりになってるの。
なぜだ、なぜなんだ。


そのわけをずっと考え続けてモヤモヤしていたのだが、ようやく、何となく答えが見えた。

彼のつくる歌は、巷の応援ソングとは、明らかに趣を異にしている。

 そばにいたいよ 君のために出来ることが 僕にあるかな
   (秦 基博 “ひまわりの約束” )

とか

 君の夢よ 叶えと願う
   (米津玄師 “カイト” )

とか、そういう、言ってもらいたいことは言ってくれない。
願ってもくれないし、祈ってもくれないし、ましてや手を差し伸べて慰めたり励ましたりもしてくれない。

何を歌っているかと言えば、ベクトルはすべて自分自身に向いている。
俺は、俺が、俺の、俺を、俺、俺、俺。(たまに僕、わたし。)
でも、直接的な励ましや、願っているとか祈っているとかいう応援っぽい言葉もないのに、こんなにも力強く励まされて力をもらえるのはなぜなんだろう。寄り添ってくれている気がするのはなぜなんだろう。

希望や勇気をくれるのは、「頑張って」や「頑張れ」という対面の投げかけだけではないのかもしれない。

 立ち上がれ がんばろぜ
   ( “P.S. I love you” )

と伴走してくれる言葉が、自分を信じさせてくれるのかもしれない。
だって、いくら「頑張って」って言われたって頑張るのは私だし。
それができるかどうかを時代の所為にしたくないし。
自分が頑張れるかどうかを誰かの所為にしたくないし。
頑張るのはきっと自分自身のためなんだろうし。

戦う己の姿は、荒野に独り立って、風に向かうイメージ。

 枯れ果てた大地の一輪の花
   ( “パワー・イン・ザ・ワールド” )

 21世紀のこの荒野に
 愛と喜びの花を咲かせましょう
   ( “Easy Go” )

 ああ風が吹いてる荒野に咲く一輪の花
   ( “shining” )


宮本浩次がつくる楽曲が響く人は、《自己治癒力》が高いのだと思う。
「頑張って」という言葉の応援によって力をもらえて頑張れる人もいるだろう。でも、対面の励ましではなくて、自分のために頑張る姿からエネルギーを受け取れる人なんだと思う。こんなに俺は俺が俺の、と歌ってて、具体的なことは何も言ってくれないし、手を差し伸べてくれるわけでもないのに、共感することができて、パワーをもらえるのだから。

このひとはずっと前から、ずっと同じことを歌い続けている。

 明日には 明日には何か 高ぶる気持ち
   ( “果てしなき日々” )

と歌った明日への希望は、

 自分との約束を叶えろ
   ( “約束” )

と何も変わっていない。
始めから歌っていたじゃないか。

 俺を俺を力づけろよ
   ( “ファイティングマン” )

って。こんなに頑張っている自分なんだから、祝福して、肯定してあげないといけないよね。

 だれか私を祝福してくれ、空よ
   ( “今を歌え” )

誰も祝福してくれないから
 ”祝福してくれ”って自分で自分を肯定している。

(『新録・宮本語録集』p.155)

 そんな俺にもう一丁祝福あれ
   ( “ハレルヤ” )

と自身で祝福し、肯定する。
そうなると、自分で自分を祝福することはすなわち、自分を鼓舞して励ますことと表裏一体。

家に帰って考えることは、一体誰に対して歌ってるんだろうって。
なんで生きてるんだろうに近いんだけど。
最近出た結論っていうのが、
やっぱ自分に対して歌っているんじゃないかって。

(『新録・宮本語録集』p.81)


結局、やるかやらないかは自分次第。
決めるのは自分。
その自分を信じるかどうか。

 「今の自分を信じてみなよ」
   ( “流れ星のやうな人生” )

 信じてみようぜ自分
   ( “ハレルヤ” )

歌の中に出てくる「おまえ」は、すなわち自分自身。彼が彼自身に向かって呼びかけているように聞こえる。その理由が少しわかった気がした。


 そうさbaby おまえのハートに この世界中のあらゆる輝き届けるぜ
   ( “Easy Go” )

いや、あなたのあらゆる輝きが《世界》なんです。
自身も走り続けて戦い続けているこのひとが歌うから、その姿が光り輝いてかっこいいから、響くんです。頑張ってもいない人に頑張れと言われてもしらけるし、怒りすらわくこともある。
…でもね、かと言って、ミヤジがこんなに頑張ってるんだから私も頑張ろう!と思うかというと、そこはそう単純に直結するわけでもなかったりする(めんどくせい奴)。そのあたりの理由は解明できていないけれども、つらつら考えるのもこれまた苦しくて楽しいんです。

そりゃあ世界を見渡したら、たいへんな思いをしている人がたくさんいる。自分がどれほど恵まれているかもわかってる。普通に生活できているだけで感謝すべきこの状態で、文句なんか言ったら罰が当たると思うこともある。
でも、人と比較してどうこうじゃないんだ。みんな1人しかいない自分を必死で生きてるんだよ。自分のことだけを考えてわがままに生きたっていいんだよ。それを教えてくれているような気もするのは、都合のいい解釈かな。

これが問いの答えなのかもしれない。
じんわりしんみり癒されたくて作った「癒し用プレイリスト」なのに、気づけばガナリ雄叫びてんこ盛りのゴリゴリロック俺は行くぜ!な歌ばっかりになっているのはなぜか。
これが《宮本浩次のポップさ》なんだ。(※自己治癒力の高い人限定)


ニュウアルバム『縦横無尽』。
…この凄まじいまでの多幸感。あふれる愛情。
これが、ソロの、いや音楽人生の集大成として至った境地なのか。
愛されることで、ここまで愛することができるのか、とただただ圧倒される。
以前のインタビュー記事で「それはもちろん広い意味ではラヴソングなのかもしれないけど、」と “奴隷天国” について語っていたのを見つけた。このひとの人生に対する愛情表現の振り幅に戦慄する…。

だったらどうなんだっつったら、どうもこうもないよ。
いつか終わりが来るその日まで、歩いていくしかねえんだよな俺たちは。
冒頭に「我らが愛してやまない推し」と書いたけれども、衒いも恥ずかし気もなく叫ぶことができる、そういう類の《愛》ってのがあるんだ。
つまるところ、すべてひっくるめてひと言で表現すると
「ドーンと行け!」
になるんだね。


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