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メディアリテラシー (情報メディアとの付き合い方)

古来、情報を司ってきたのは支配者層、もしくは、その周辺の人々か学者達でした。
これは学ぶ機会も含め、一部の人間達が独占し、その優位性を維持してきました。
入ってくる情報をいかに活用し、より大きな力に変えていくかという常套手段として大いに活用され続けてきたのが、有用、有益な情報でした。
しかし、情報の活用を間違えば、場合によっては一国をも滅ぼしかねないということは歴史に学ぶことができます。
その状況は今も昔も変わらず、情報をいかに取捨選択していくかということは、人間社会においてとても大切で、かつ、とても難しい事です。

学習の本質的な部分において、それぞれ個人や集団にとって必要な情報をいかに使い分けて、より良い方向性に結びつけていけるかということ、つまり、その見識眼を身につけるということであるということは明白です。

さて、現代、とてつもないスピードで急速に普及していったスマートフォンを窓口にした24時間誰でもアクセスできる無限に広がる情報過多の世界。
文字通り子供から大人まで誰もが情報過多の海原に放り出された状態にあります。

そこで私が知る学生の指導領域において、
学校では中学校の社会科や国語科でメディアリテラシーという言葉を取りあげています。
この言葉の意味は、メディアを主体的に読み解く能力のことですが、そこから得られる情報の取捨選択する能力と発信側に回った時のコミュニケーション能力も含まれます。

結構広義にとれる言葉ですので、便利に使える言葉ですが、これを心得て体得して日々インターネットにアクセスするということは、大人でも容易なことではありません。
しかし、まだ基礎教養のままならない子どもたちにも否応なくスマホを持たせている時点でこの問題にさらし続けることになります。

このことについて、実感的に学校ではワンタッチで言葉の説明程度にとどまり、ご家庭では野放しにされているケースが多いような気がします。

さて、このメディアリテラシーという観点をいかに身につけていくべきか、私なりに今回は提言していきます。
ことは、人間の本質的動向にも迫り、一筋縄ではいかないところまできていますので、できるだけ明快に書いていきます。

人がスマートフォンを窓口にした24時間アクセスできる情報過多の環境にさらされたらどうなるのか。
特に基礎教養を身につけなくてはならない子どもたちの立場に立って眼の前に起こる問題点を箇条書きにします。

・目が悪くなります。特にピント調整機能を奪われます。

・自分で考える機会を減らします。知らないことを検索エンジンで調べることに頼り、場合によっては考えることを放棄して、脳の成長を著しく妨げます。
・体内時計を狂わせます。ブルーライトによる効果で、脳を疲労させ、睡眠障害を引き起こす原因にもなります。
生活のリズムが不規則になることによって、情緒が不安定になる可能性も含みます。

・常に情報過多の状況におかれた人間は、逆に自分の好きなことや、興味のあること、気になる情報など、限定的な情報ばかりに接するようになる傾向があるらしく、不思議なことに、かえって視野を狭めてしまう要因になってしまうことがあります。

・時間を奪います。
やらなくてはならないことの優先順位がおかしくなり、気がつけば自主勉強やクラブ活動での自主練の機会すら奪い、人生にとって貴重な若い時期の成長の芽を摘んでしまう可能性があります。

・食欲減退や睡眠障害などからくる物事に対する意欲の減退に繋がります。

・悪い情報や偽の情報を信じ、場合によっては犯罪に手を染めることも出てくる可能性があります。

・顔の見えない匿名性の世界では、現代の大きな問題になっている誹謗中傷の対象(発信する側、される側含め)になってしまい、場合によっては、いじめや自殺者まで出てしまっています。

いくつか挙げてみましたが、どれをとっても人生を構築していく入口の時期の青少年にとって、必要なことではないことの方が多いわけです。
自分を作り上げていくタイミングというのが、それぞれの人生であるとしたら、共通して絶好のタイミングと言えるのは10代です。
若いということは、体力も気力も感性の鋭さも歳をとってからとは断然違います。
10代の頃、何かで仲間と切磋琢磨したり、自分なりに精一杯取り組んだことというのは、必ず、その後の人生を豊かにしてくれます。
努力という言葉は、何か仰々しいので、それよりも、どちらかというと行動という言葉を使って生徒さんに伝えますが、何かを習慣づけて動き出せば、この頃は、あっという間にそれまで悩んできた状況は好転に向かいます。

つまり、ここで伝えたいことは、子供さんにスマートフォンを与えて、放置するということは、絶好の成長機会を奪う事になりかねないということです。
おそらく、このスマートフォンという物の扱いについて、そこまで覚悟を持って与えている親御さんは、多いとは思えません。
子どもたちにとって、使用方法を間違えば、とても、危険な道具であることは周知の事実であるにも関わらずです。

それは、普及速度が想定を遥かに超えてしまって、今では幼稚園や小学生まで持っていることが普通になってしまっている。
この問題は、みんなが持っているから与えるのだという迎合主義では済まされない社会問題なのです。

学校での1つの取り組みとして有効だと思う指導内容があります。
だいたい義務教育をまっとうに受けて学ぶと新聞の記事が読めて、およそ理解できるようになります。
新聞社によって物事の捉え方が若干違うことも、認識できるようになります。そこには社会生活に必要な語彙力や社会通念上の常識の範囲を理解して咀嚼して判断できるだけの基本的な内容があります。
そこで、高校や中学の後半の教育現場では受験対策の一環として新聞の社説欄を生徒に読ませて、要約させたり感想を書かせたりすることをやっていることがよくあります。5分程度で読めて、社会を知る窓として有効で、社説を担当されている記者の方々はエース級の方々が担当されているのでどの記事も秀逸です。
私の指導の中でも随分前から取り入れています。

インターネット上の記事と新聞の記事の違いは、言うまでもないかも知れませんが新聞の記事は書いた人の名前や新聞社の責任において出されている情報だということで情報に対して責任が生じ、出稿されるまで何人ものプロの目をくぐって、ようやく記事になります。
それに対し、誰でも責任の所在を明確にしなくても偽の情報をのせてしまえるのが、インターネットの記事です。
そこに性善説も性悪説もどちらも成立してしまう、それを見破る術を小学生や中学生があらかじめ持っているはずもありません。

ここで結論として2つの提言をします。
1つ目は、学校教育の中で、このことをもっと多くの時間を作って取り組むべきだと思います。
身体(目、脳、精神など)へのダメージなど様々な弊害をディスカッションさせたりして、子どもたちにしっかりと認識させていかなくてはならない時期にきたと思います。
この事を無視して、学力向上、様々な士気向上を図ることは難しい段階にきていると実感しています。

私の指導では、最近の数年でみさせて頂く生徒さんのかなりの確率で、スマートフォンへの依存が明確な原因で、私生活が崩れ、学業が不振だという生徒さんに多く出くわします。
そこで指導の早い段階でスマートフォンに対する認識を正してもらうことに時間を費やします。最初の面談のときには、親御さんからスマートフォンに対する依存を何ともできなかったと敗北宣言から始まることが多いのですが、私がこのことについて、しっかりと説明すると場合によっては1度の説明で収まる場合もあります。
無論、早くこの事の重大性に早く気づいて、自分がやらなくてはならないことに動き出した生徒さんの学業成績は見違えるように伸びることが実証してきています。

2つ目は、やはりご家庭の対応です。
もうすでに、家庭内での躾の分野にスマートフォンの扱い方を指導する段階にきていることを認識して、どう対処すべきなのか子供さんと一緒に考える時間をしっかり持つべきです。
この問題でスマートフォンに大切な貴重な時間を奪われていることを共有して分かり合わなければならないと思います。
水道に例えるなら、蛇口が全開な状態で、どうしようと言っていても何も始まりません。締めるところは締めなければ、状況はいっこうに変わりません。
具体的には、スマートフォンの使用時間を制限していく、もしくは取り上げるべき時はとりあげる。強い姿勢で臨む必要性がもうすでに、
今なのかも知れません。
ここでまた、私の指導の実例を挙げておきます。
比較的長い間みさせて頂いた生徒さんで、中学でスマートフォンを与えるべきか親御さんから相談を受けていたのですが、私は受験も控えているということで、時期をみたほうが良いので、今はその時ではないことを強く主張していました。
しかし、私の主張はあくまでもアドバイスで生徒さんにも親御さんにも強制や強要を強いていく権利はありませんし、しっかりと説明して考えて決断するのは、ご家庭内のことだと最後は結論を預けていくのが私の主義です。
そんな矢先、ある日指導に訪れるとスマートフォンを買い与えられていました。実はこのようなことはよくあるのですが、結果、私の進言は悪い方に的中し、いっこうに伸びるはずの成績が伸びてこない、問いただしていくと最初は誤魔化していたのですが、指導内容とテストの点数の関係性がどうも噛み合わない、指導内容に対してあまりにも点数が取れてなさ過ぎていることを追求していくとどうもおかしい事が分かってきたので、親御さんを交えて話し合うことにしました。
すると、受験を左右する大切な時期でありながら、スマートフォン依存が激しく相当な時間をスマートフォンに時間を奪われていることがはっきりしました。
私はその場で再度、この状況がとても良くないことを説明し直し、ご家族の判断にもう1度委ねることとしました。
すると、親子間での話し合いの結果、若干の右往左往があって本人からも了承を得て、一定期間、スマートフォンを取り上げる決断をされました。
当初は、返してほしいと親御さんに懇願する場面もあったそうですが、受験期間を乗り切り、見事、再起をはかり、成績を勝ち取って志望校の受験に成功しました。
後日談ですが、その生徒さんから言われたことはすごく印象的でした。
「あの時、スマホを断たせてもらったことによって、
読書の時間も増えて、受験を乗りきれました。
スマホ依存の怖さを知って良かったです。
ありがとうございました。」
という言葉でした。

今回取り上げたメディアリテラシーという言葉については、むしろ我々大人たちがしっかりと見直して、取り組んでいかなくてはならないことも多く存在します。
昨今、日本の国会や世界の議題にも取り上げられています。
特に取り上げられだしているのは、誹謗中傷の件やAIについてですが、そればかりではなく、メディアや情報との関わり方、取り扱い方について、社会全体で良い方向性を探っていく時期にきています。

一国の議題に挙げられるほどの難解な情報の取り扱いについて、教育がまだまだ不十分な子供たちに実質上丸投げの状態を早く解消して、国家として社会として、責任をもって方向性を示して良い方向に導いていかなくてはいけないとここ数年つくづく思っています。

少年老いやすく、学成りがたし

という昔の言葉がありますが、学ぶべき時はしっかりと安心して学ぶ時間を整えてあげていくことは、子どもたち将来を健全にし、日本の未来を担ってもらう若者たちに対する大人の責任です。











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