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征服前の背景について①スペイン-レコンキスタと複雑な西ヨーロッパ-

ラテンアメリカの征服は、そのほとんどがスペインによるものでした。きっかけとなるコロンブス(コロンもしくはコロンボとも)の西インド諸島到達の前、スペインや西ヨーロッパがどんな状況に置かれていたのかをまとめたいと思います。
※長めです。 

イスラム勢力と700年以上も戦争中のスペイン

まず、スペインと隣国のポルトガルがあるイベリア半島です。

ここは西ゴート王国というキリスト教国がありましたが、711年にイスラム勢力のウマイヤ朝によって実質滅ぼされます。(日本では藤原不比等と長屋王ら皇親勢力との間で、朝廷内で微妙な駆け引きが行われている頃です)
 
ウマイヤ朝は、キリスト教に対しても、ユダヤ教(西ゴート王国では弾圧されていた)に対しても、一定額の人頭税を払えば信仰の自由も教会の維持・建設も認めていて、イベリア半島はイスラム・キリスト・ユダヤの文化が入り混じった歴史を歩んでいきます。

これについてはよくイスラム勢力の寛容さとして強調されがちですが、商人が興した勢力ゆえの合理性の側面もあるように思います。

レコンキスタと深まるカトリック信仰

一方で、西ゴート王国の貴族ペラーヨは北部に逃げのび、718年に在地の勢力と手を結んでアストゥリアス王国を建国します。722年、この地に攻め込んできたウマイヤ朝を撃退したことで、アストゥリアス王国はイスラム勢力への反転攻勢の拠点となります。

これが、1492年まで続くレコンキスタ(国土回復運動)の始まりとされています。
※ただしこのストーリーは後世にいろいろ誇張されているところがあるらしいのですが、本筋とは関係がうすいので割愛します。
 
レコンキスタによるカトリック勢力の再征服は、ウマイヤ朝自体の衰退もありながらじわりじわりと広がっていきます。その間、国内でも地位を高めた家系が独立するなどして、15世紀中頃には中央にカスティーリャ王国、東にアラゴン王国、西にポルトガル王国という3国が有力になり、イスラム勢力は南部のごく一部の地域にまで追いやられます。
 
また、この間にカスティーリャ北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラという街が、カトリックの重要な聖地として崇められていきます(ここはいまや世界三大カトリック聖地のひとつとまで言われているようです)。さらに、15世紀後半にはカトリックを深く信仰するアラゴンの国王フェルナンド2世とカスティーリャの女王イサベル1世が、夫婦として両国を共同統治するようになり、両国内はカトリックの信仰心で満たされていきます。 

西ヨーロッパは難しい時期

イベリア半島では着々とカトリック勢力が力をつけている14-15世紀は、西ヨーロッパ全体では難しい時期でもありました。 

ペストやばすぎ問題

1330年ごろから中央アジアなどでペストが大流行しますが、それからしばらくしてヨーロッパでも流行が始まります。もともとヨーロッパでは、1310年代後半に何年も大雨が続き、農業が不作に陥って飢饉が発生していました。そのダメージから回復しきれぬまま、致死性の高い未知の病原菌が入ってきました。最悪のタイミングです。
 
このペストの猛威で、最終的にはヨーロッパの人口の3分の1が失われたと言われています。 

オスマン強すぎ問題

またヨーロッパの東に目を向けると、オスマン帝国が大きな脅威でした。彼らは幾度となく東ヨーロッパに侵攻してくるのですが、それはあまりに強すぎました。例えば14世紀末に行われたニコポリスの戦いでは、バルカン諸国とフランス・ドイツの総勢11カ国で編成した連合軍を、ほぼ1国だけでボッコボコにしています。怖い
 
1453年には、これまで何度も侵攻を食い止めてきた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都・コンスタンティノープルが攻略されます。
 
東ローマ帝国が滅亡し、ヨーロッパ侵攻の足がかりとなる要衝をオスマン帝国に押さえられたことで、神聖ローマ帝国をはじめとした西ヨーロッパは、オスマン帝国に真っ向から対応しなくてはならなくなります。

ローマ・カトリック教会にはびこり始める不協和音

ローマ・カトリック教会は、当時絶大な権威と権力を持っていました。これはローマ帝国時代の国教化からフランク王国との協力関係の構築、叙任権闘争、十字軍など、長い時間の積み重ねによって築かれていった歴史の賜物でした。
 
とはいえ権威だけでなく権力も持つということは、元来の俗世の有力者、例えば皇帝や王、貴族(諸侯)との利害関係が発生するため、彼らとの政治的な争いも頻発します。
 
それ以上にまずかったのは、こうした俗世社会との駆け引きを嫌う聖職者の一部が不信感や不満が募らせていったことでした。彼らは時に、現状の教会を激しく非難し、教会改革を目指していきます。聖職者なので教会内のエリートです。したがって彼らの非難は、大体において説得力を帯びているものになりがちで、簡単に無視できる主張ではありません。

しかし現実として、膨大な信者の管理、信者の信仰心を満たす器としての聖堂などの建設、聖職者への活動費用、弱者救済の受け皿や施しなど、教会がそれにふさわしい行動を行うためにも、俗世社会との駆け引きで得られる財力や権力社会での影響力などを維持する必要もありました(もちろん私腹を肥やすなどしていた者もいたようですが)。
 
結果としてローマ・カトリック教会は、批判者に対して異端という厳しい処置を使い、事実上弾圧していく事態を招きます。これがますます反発を招き、あるいはフス派戦争などの大規模な反乱を誘発し、後のルターによる宗教改革へとつながっていきます。 

社会構造が変化・多様化していく時代

こうした様々な不穏なできごとは、社会に変化をもたらしていきます。
 
例えば、ペストで農業人口が減ったことで領主と農民との関係性が変化します。労働力確保のために農民への待遇をあげたり、農民側の主張の強まりや抵抗運動の高まりなどで領主が没落していくことも頻発します。また、これに乗じて没落した領主の土地を手に入れるなどして国王の権力が高まっていく地域も出てきます。
 
一方で、当時は地中海の商業ネットワークを駆使してイタリアの商人たちの一部が莫大な利益を上げていたのですが、オスマン帝国の侵攻の影響でこれまでのような商売ができなくなり、別の商業ルートを模索する必要に迫られます。

この難しい時期こそが、ルネサンスの萌芽?

ただ、物事には表と裏があるようで…。
 
この不穏なできごとから、ヨーロッパ最大の転換点の一つとも言えるルネサンスが形作られていったとも言われています。 

ペストの猛威が人生観を変えた?

いつ自分が死んでもおかしくないペストのパンデミックの中で、人々の間では「メメント・モリ(死を想え)」という言葉が流行し、人類が越えることのできない存在=神に対する忠誠が高まります。ですがその一方で、「明日死ぬかもしれないのなら、今を楽しもう」という真逆の価値観も生まれてくるようです。
 
では、この「楽しむ」とは何かというと、例えばイタリア・メディチ家のロレンツォによると、「酒を飲もう」「恋をしよう」「愛し合おう」ということらしいです。こういった(神中心ではなく)人間中心の考えや、(死後ではなく)いま生きている世界を肯定する価値観が強まってきたことが、ルネサンスの思想のきっかけになったという説もあるようです。 

イスラム勢力から受け継がれた資料?

コンスタンティノープル陥落によって、そこにいた学者たちはイタリアに逃げていきます。この頃イタリアでは古代ギリシアの研究が進んでいたのですが、文献と学者が相次いでやってきたことにより、研究が一気に進展します。これもルネサンスの原動力のひとつとなったようです。
 
そしてこの古代ギリシア研究の進展には、イベリア半島も関係しているようです。そもそも古代ギリシアの知の遺産は、イスラム勢力の侵攻で彼らの手に渡っていました。イスラム勢力はそれをアラビア語に翻訳し、自分達の文化振興に役立てます。そして、今度はこの資料がラテン語に翻訳されていきます。その翻訳作業が行われていたのが、イスラム・キリスト・ユダヤが混在していたイベリア半島でした。
 
こうした資料がイタリアに渡り、当時の最先端技術である印刷技術によってヨーロッパ中に広がっていったとも言われています。なんとも壮大なストーリー…。

 なんだか生きづらそう…

このような感じで、15世紀のヨーロッパは各地で様々なことが起こっていて、シンプルに生きることが難しそうな時代に思えます。
 
疫病の蔓延、外敵からの圧力、社会の根底の価値観を決めているローマ・カトリック教会の揺らぎ(信仰の揺らぎ)、農業や商業での既得権益の地盤沈下の予感…。既存の価値観やルールが崩れはじめてきて、各地で先行きの見通せない非統一的な動きが起こっているという点は、現代社会に近いかもしれません。
 
もしかしたら、現代社会が各地でゲームチェンジやイノベーションを求めているように、ヨーロッパ社会全体に何か風穴があくのを待っている空気感があったのかもしれません。

そして、イベリア半島周辺で大きな動きが起こりはじめます。

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