見出し画像

2022.08.20 今日の日記

私はあまり自分でアニメにハマることがないけれど、おすすめされたり、一緒に見たりするという工程があるとめちゃくちゃハマる傾向がある。

鬼滅の刃もそうだった。1〜2年前くらいに甲府と東京で2拠点していた時、甲府のシェアハウスの友人から「アニメ、絶対、観て!」とゴリ押しされ、夜11時を既に回っていたのだが「じゃあ1話だけ・・・」と言ってみたらそのまま5話くらい連続で友人と観てハマってしまった。

そして、いろいろよかった。1話とか2話はまあまあグロテスクシーンもあるものの、アニメーションのクオリティもさることながら、大変惹きつけられた。

甲府から東京に帰ってきて、残りのアニメを一気に全部観た。面白かった。何が面白かったかというとそんなに具体的に答えられる訳ではないが、30分で終わるのも集中力が保てるし、オープニングソングエンディングソングも好きだった。アニメ感想に関しての語彙がなさすぎて書いてて笑っている。

私は血がブシャーみたいな描写も人間じゃない鬼のような描写も別に得意ではない。印象に残ったものは夢に出てくることがあるので怖いのだ。

でもいまだに覚えているのは確か第一話で主人公の炭治郎が鬼になった妹・禰󠄀豆子が殺されそうになった時、冨岡義勇に向かって土下座して「どうか、妹を殺さないでください・・・」と懇願した際に返した言葉。
鬼滅の刃のキャラクターの1人、冨岡義勇の「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という名セリフである。

せいさつ-よだつ【生殺与奪】生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分の思うままになること。絶対的な権力を握っていることをいう。

goo 辞書

生殺与奪の権を他人に握らせるというのは、つまり相手に全ての決定権を委ねるに近いことであることがわかる。今回の鬼滅の刃の場合だと人の命として使われているが、現代社会だとどうだろうか。私は鬼滅の刃を見ながらぼんやりそんなことを考えていた。

生殺与奪の権は今の現代社会でいうと本当に人を殺めるという意味にはならない。それはこの国ではタブーとされていることであり、犯罪であるため全く今の社会の世界線とは関係ないことのような気がする。

けれどこの世界での私たちの生殺与奪の権は一体なんなのかと考えた時に、自分という存在価値になるのではないかとおもった。生命体としての命ではなく、社会全体、個としての存在価値である。

SNSが当たり前にあって、誰とでも繋がれる。フォロワー数や視聴回数が見られる中、人の命を奪うという目の前で斬沙されることではなく、わたしたちがこの世界で生きている意味を無自覚的に社会から問われている気がしているような、そんな気持ちになったことはないだろうか。少なくとも私はある。

役に立つ、そこにいる意味、私がここにある意味を見出し始めるようなループに近い。

SNSでのフォロワー数然り、動画の再生回数然り、目に見えて変わる数字による自分の存在価値を(鬼滅の刃でいう生殺与奪の権)を本名もわからない、性別もわからない底のない海へ毎日何かが放り込まれていく。

誰かに見つけてもらえるように必死になる。それは見えない鎖のようなものに近い。一体化してしまっていく自分に気づかないまま、酸素を取りに戻るタイミングを失う。疲弊する。現代の生殺与奪の権を無数の何かに渡している。

他人に自分の存在証明を求めなくていい

そこから自分というものを見出さなくていい。そこから生まれる自分を自分らしさであると定義しなくていい。他人からの評価で自分を決めつけられるのを許容しなくていい。本当にこれが現代の生殺与奪の権だ。

しかし気がつけないことだって多い。なぜなら当たり前にあるSNS。日常に溶け込んでいるSNS。人との繋がりは確かに生まれ、海を越え、世界と繋がれる。それは間違いない。でも分別はしないと自分が苦しいのだ。そこに自分の存在価値が全て置かれたら、もうそこには自分という実体がいなくなる。

目の前にいるのは、誰なのか。
目の前にあるのは、一体なんなのか。

実体がないものの世界は、自分と世界との分離だ。実体がないものは虚像の世界だ。イメージの世界にはそこに相手はいない。

だから自分にとっても誰かにとっても、ここで伝えたいことがある。

自分の中に見出せる信頼感と安心感を持つのに、外ではなく内側の種に水をあげてほしい。周りに咲く美しい花ではなく、自分の中の芽を育んでほしい。そこは誰でもない自分にしかできない。それは時間がかかる。もちろん人によって成長の速度は変わってくる。でも、見るのは自分の内側であることを思い出してほしい。

生殺与奪の権は、例えとしてわかりやすいから今回ここで出しているが、私はよく自分の人生の手綱ともいうことがある。もう面倒くさいから他人に委ねよう。人に決めてもらおう。責任取りたくないし、のような状態である。(大袈裟に書くとこのような感じである)

その方が楽である。自分で決めなくていい。相手に任せればいい。任せておけばいい。ただ流れてくるどんな選択肢がきても、それを選んでる自分がいること自覚しておくことが必要である。

これも例えであるけれど、その場合、目の前に流れてきたお寿司は食べなければならない。(食べないという選択肢もあるかもしれないが、その選択肢は見えてこないことがほとんどだ)本当はネギトロがよかったのに目の前にきたのは納豆巻きでした。まあ納豆巻きも好きだからいいか。という許容が増えると、人間はそれに慣れていく。違和感にすら許容が始まる。だからまあいいかを積み重ねていく。だから自分にとっての本当の意味での欲しいものが分かりにくくなる。

自分の手綱を保つために、簡単にだができることは意外とあるので、ここでは一つお伝えする。手綱を持ちたいと思う人は読んでもらえたとおもう。

話が少し飛ぶが、自分にとっての1番を言い換えると「ときめくもの」とも言える。自分にとっての本当に生きたい道、欲しいものはなにか。こんまりさんの片付けメソッドは、片付けるけど「ときめくもの」が自分にとってなんなのかを磨いていく訓練になる。だから片付けするたびに自分にとっての1番が何かが段々わかってくる。人生の選択肢となると少し腰が引ける。だったら普段身の回りのものから始めたらどうだろうか、という提案だ。

一般的な成人は、1日のうちに3万5000回も、何かを選択し決断しているのだという。その選択がときめくものの割合を増やしていくことから始められるわけだ。もちろん断捨離は必ず起こるだろう。そこはさびれていたセンサーを地道に磨いていく必要はあるからだ。

生殺与奪の権もとい、自分の人生の手綱は、持ちたいか持ちたくないかはぶっちゃけここまできていうことじゃないかもしれないが、その人の好みだ。

どう生きたいかはその人自身が決めることであるし、それはやはり他人には決められない。どうしたいかは本人次第だ。でも少なくともこれを読んでくれた人に何か小さなきっかけになったら嬉しい。自分を生きるために今日は何ができるだろう。そんなことを考えてくれたらもっと嬉しい。

どう生きたいかはその人次第だけれど、そこを一緒に歩んでいける人たちが増えていったらいいなと心からおもっている。それが私の勇気になる。今日の日記というタイトルで書く内容ではなかったが、ここまで読んでくれてありがとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?