見出し画像

コーネリアスの音楽について

 音楽の知識もセンスもないのだが、去年の夏に久しぶりにコーネリアスを聴き始めて、一気に作品を摂取したことで色々感じることがあったので、それを書いて整理しようと思う。にわかファンの知ったかぶり的な感想になって申し訳ないが、フリッパーズ・ギター時代からの変遷を辿りつつ考えてみる。(コンピやリミックスや「デザインあ」にまで触れだすと長くなるし、そこら辺はもう少し知識がないとうまく書けない気がするので、省略します。)

 私が最初にフリッパーズを聴いたのは、高校が別になった幼馴染の家だったので、たぶん中学時代だ。ファーストアルバムを聴かせてもらった。洋楽そのもののような曲のキャッチーさと、なのに英語が下手なのが印象的だった(今は、他のファンの方々も指摘にされているように、発音は上手になっている)。その時ダビングしてもらったのか、繰り返し聴いて「恋してるとか好きだとか」や「奇妙なロリポップ」などを気に入り、部屋で一人で歌っていた記憶がある。その時はなぜか、どんな人が演奏しているのかは気にしていなかったようだ。

 去年夏以降改めて、手元に残っていたフリッパーズの2ndアルバム以外も入手したが、その中でライブアルバムを初めて聴いたことで、フリッパーズへの認識自体も大幅に変わった。単に口が悪く演奏が下手らしい、でも歌詞は凄い、ポップスマニアだったのだと思っていたけれど、パンクなんだな、とようやく気付いた。(昔は読んでなかったその頃のインタビュー記事を読んだことも、多少関係しているかもしれないが。)これまでは、ただ一番好きな「すべての言葉はさよなら」だけを聴いていたけど、今よく聴くのはライブ盤だ。勢いが素晴らしい。ヘッド博士は、以前引っ越しで大量処分した際にうっかり手放したみたいで、最近買い戻してまだ聴き込みは足りない。ちゃんと感想は書けないけれど、面白くて複雑で好きだ。ゆっくり味わっていこうと思っている。

 昔に話を戻す。その後気づいたらフリッパーズは解散していて、ラジオ漬けになっていた私の前に、コーネリアスとしてデビューした小山田氏が登場したのだと思う、はっきり覚えてはいないけど。1stアルバムは、今思うとシングル集のような、キャッチーな曲の集まりなので、その頃の私にもとっつきやすく、購入もした。好きな曲はたくさんあるけれど、今は基本的には個別に聴いていて、通して聴く感じのアルバムではないように思う。歌詞は、昔はあまり気に止めていなかったけれど、この夏に聴くと、なんだか預言的な感じもして(これは2ndアルバムや『Mellow Waves』も)、歌の言葉というのは不思議なものだなぁと改めて思った。そういう意味では力のある歌詞だったのかもしれないな、と。

 2ndアルバム『69/96』は、当時はぴんと来なくて買わなかった。今も、ちょっとこもった感じの歌声などがまだ掴み切れないアルバムではあるけれど、好きな曲は多いし、アルバムの世界観をトータルデザインしている感じや、収録時間や付録などの遊びも含め、コーネリアスらしさの重要な部分が完成した作品だと感じる。結構好きになって、夜などに聴いている。これも砂原ミックスで聴いてみたい(音源としては存在してそうだし)けれど、再発はやはり無理なんだろうな。

 3rdアルバム『FANTASMA』は、発売時にぴんと来てすぐイヤホン付きのを買った。楽しくて美しくて毒もある、本当に彼らしさの詰まった名盤だと思う。今はアメリカのリマスター盤を入手して聴いている。「Lazy」や「Typewrite Lesson」が好きなので、高かったけれど買って良かった。昼間や作業中に楽しく聴くことが多い。

 フリッパーズからこの頃までは、何かの元ネタを使って作られた曲が多いようだ。聴いてすぐ分かったものもあるし、積極的に調べてはいないがネットなどで知ったものもある。元ネタと言われているものと彼の曲とを聴き比べて感じたのは、曲のエッセンスを掴むのが本当に巧みだな、ということだ。元のものは、確かにオリジナルなわけで素晴らしいのだが、彼の曲を聴いても、ただの真似だとは思わないことが多い。音数を減らしているのに、しょぼくない。下手するとより強度が増したように聴こえるものもある。その曲の魅力のエッセンスを把握する能力が、今の音作りにもつながっているんじゃないかと、私には思える。

 『POINT』は、発売当時、なんか凄いらしいことだけは分かったけど、理解が追いつかないので買わなかった。今もそういう傾向は残っているけれど、以前の自分は、音楽を聴く時にも、言葉への共感をフックとして必要としているところが多かった。スナップ写真を撮るようになったせいか、生活が変わったせいなのか、今は断片的な映像とか、言葉がない音楽でも、感覚として楽しむように変わってきた。そうした今の気持ちで聴くと、自然の音が沢山取り入れられていることもあって、全体的にすごく落ち着くアルバムだ。これもリマスター盤で入手していて、朝はオリジナルの「Point Of View Point」や「Bird Watching At Inner Forest」を、夜はヤン富田さんミックスの「Point Of View Point」を聴いたりする。しかし、これも全体で聴くのが気持ちいいので、朝や夜に通して聴くことが多い。このアルバムと次のアルバムの歌詞は、歌詞のようなリズムのような、不思議な感じ。最近あまり歌詞カードを見なくなったので、音の要素のひとつのような感じで聴いている。

 『Sensuous』は、『POINT』の境地を更に進めたアルバムなのかな、と思うが、まだ正直掴みきれていない。全体的に静けさが増したようなイメージがある。曲毎の曲調としてはそんなに静かでもないし、相変わらず楽しい遊び心も満載なのだが、音数の少なさのせいで静かに感じるのかもしれない。以前Twitterで、ファンでない人が、コーネリアスは音楽の解体だと言っているのをみかけたが、その人は、「Fit Song」「Gum」などここら辺のものを聞いたのかもしれない。解体だけでなく再構築もしていると私は思うが、その人が普段聴いているものにもよるし、感じ方はそれぞれなので、何とも言えない。この2曲は、すごくライブ映えしそうだと思う。このアルバムは夜に通して聴く。

 『POINT』以降のアルバムをヘッドホンで聴くと、大きな東屋かガラス張りの部屋のような場所が思い浮かぶ。空気は澄んでいて、水の流れる音がして、見晴らしが良い。鳥も時々近くに止まって歌っていく。タワーレコードのポスターのインタビューで、音でマッサージをしたい、と言っているのを読んだが、マッサージだと痛い段階があってから気持ちよくなったり体が軽くなる。けれど、彼の音楽では聴いた瞬間から移動している感じがする。私が一番近い感覚だと思うのは、昔流行った「3Dで目が良くなるマジカル・アイ」とかいう、毛様体筋をゆるめるという謳い文句の画像を見た時の感じだ。あれ自体は実は目が良くなるようなものではないらしいが、眺めると確かに目の緊張がゆるむ感じはある。あの、ふっと楽になる感じが似ている気がするのだ。

  あと、年月をかけて試行錯誤し、細部まで気を配った音作りをしているにも関わらず、彼は決して「これは最高の音響システムで聴いてもらいたい」とは言わない。「どんな手段で聴いてくれてもいいようにしてる」という風に言ってくれる点、何チャンネルの安価な機械で聴いてもちゃんと楽しめるものを、と思って作ってくれているところが、耳が優れているでもない庶民の聴き手として、最も信頼のおけるところである。ちなみに、私が使っているヘッドホンは、値段とレビューで選んだKOSSのKPH30iで、アウトレットで2千数百円程度だったものだ。

 『Mellow Waves』は、今一番好きなアルバムだ。どの時間に聴いても落ち着いて良い。彼の声の手触りは、やっぱり柔らかく素直で好きだなぁと思う。「加齢が」なんて言っていても遊び心は健在だし、歌を口ずさむのが好きな私としては、歌モノに戻って来たのが、やはり嬉しい。このアルバムの歌詞は、書いているのが1人でないのに、何だか諦めと淋しさ、優しさとほの明るい感じのトーンが通底している感じがして、それが心地良い。音は相変わらず気持ちいいが、トーンがまた変わった気がする。ギターの多用のせいだろうか?

 これも、彼がインタビューで語っていたことだが、曲作りでやっているのは、音の重なり過ぎているところは音を抜くこと、そして、少しポイントをずらすことでグルーブが生まれるのが好きなのでやっている、と。それだけ聞くと、同じ様に他の人もできそうに思うが、似た風のものはあってもそっくりな音楽は聴いたことがない。ギターの感覚がそうさせるのか、共同作業をしている美島さん高山さんの存在もあるとは思うが、決定的なの要素は何なのか、それがまだ分からない。『Mellow Waves』に関する記事の中で、小西康陽氏にコーネリアスについて尋ねたインタビューがあり、「映画でピアニストが音が消えていくのをdieと呼んでいるのを聞いて、ああ、小山田君が表現しようとしたのはこのことじゃないかと思った」というようなのを読んで、非常に興味深く思った。実際、そういう深みのあるアルバムだと聴いていて感じる。

 『Ripple Waves』は、ほとんどリミックス集のようなアルバムなので、ずっと聴きたい曲を聴くだけでいた。けれど、この前ファンのリスニング・パーティーでヘッドホンで聴いてみて、印象がガラッと変わった。これは、ある意味では大人向けの新たな『FANTASMA』みたいなものだな、と。「Mic Check」のかわりに「Audio Check Music」で始まっているところ、全体的に効果音がにぎやかでキラキラした楽しさが、そんな感じ。全体をちゃんと聴かずに思っていたより、アルバムとしてしっかりまとまっていた。これは、昼か夜にヘッドホンで聴きたいアルバムだ。「Inside a Dream」だけは、寝しなに聞くと気持ちいい。MVの頭を撫でられている図を思い浮かべながら、聴いているとほんわかする。

 次はどんなアルバムが出て来るのか、気長に、でも切実に待っている。今までライブに行こうとしなかったことを、本当に後悔しているので、ライブが見たい。アルバムではほとんど生音を使わず、あれだけ完璧に近い音作りをしているのに、あくまでライブで再現することにこだわっている事、そして映像とのシンクロの仕方というのが、コーネリアスの大事な特徴だと思うので。

 彼はライブのエンターテイメント要素として、テルミンを、舞台に上げたファンと一緒に演奏することをしている。彼も会ったことのある、日本初のプロのテルミン奏者竹内正実氏がテルミンについて述べていたことが、興味深かったので、少し紹介したい。

 テルミンはデジタル楽器であるのに、演奏者の持っているピッチの感覚などに委ねる部分が非常に大きい、非常に人間を感じられるインターフェースであるそうだ。音律や音階に縛られない楽器で、しかしそれを一定のルールにのっとって演奏することで、逆説的に「不自由さの中の自由」を感じられるようになる、これは非常に今日的な問いでもある、と。演奏者の感覚にあまり左右されない感じの弾き方や新型器も開発されてはいるけれど、それは邪道で、個性による不安定さは維持すべきだと、竹内氏は考えているようだ。私の要約なので、若干違っているところもあるかもしれない。詳しく知りたい方は最近出された『テルミンとわたし』を読んでみてほしい。実は私もまだ読んでいる途中なのだけど、映画にもなったテルミン博士の経歴や、ソ連崩壊後のロシアもたっぷり出て来るので、今読むと尚更興味深いだろうと思われ、色んな意味でお勧めです。(今思うと、音楽とプロパガンダの微妙な関係、そしてそれへの事後の糾弾という意味でも、興味深い。)

 竹内氏がテルミンを表現したその言葉は、コーネリアスの音楽にも当てはまる気がする。エレクトロニカというジャンルに分けられることが多く、打ち込みを使ったミニマルな音楽なのだけれど、彼の声の柔らかなタッチや生演奏にこだわることなどで、デジタル音と人間味とを同時に細やかに奏でている、そこに私も魅かれているのではないかだろうか。

 ついでに、写真好きとしては、彼がやっているようなことを、デジタルカメラでできたら、きっと素晴らしくかつ新しい写真になるんじゃないか、と妄想してみたりする。残念ながら、私は根本的にカメラという機械の仕組みが理解しきれないのと、大雑把で不器用過ぎて、何年やってもまぐれ当たり頼みの下手くそなので、自分では実現はできそうにないのが、偶然そいいうのが撮れたりしないかな、なんて虫のいいことを考えている。いや、撮る部分というよりは、デジタルでの現像の段階が鍵になる気はしているのだけど。

 改めて聴き始めたきっかけが非常に苛烈な炎上だったので、ご本人はまだ活動再開されていないし、こうやって自分が気楽に彼の音楽に楽しませてもらっていることに、ある種の後ろめたさを感じてしまう部分もある。私がやや自虐的な性格だからかもしれない。そういう矛盾を感じていても、彼の音楽はやっぱり疲れた心身をリセットしてくれるので、素直に楽しんで聴き続けていこうと思っている。

 カバー写真は、通りすがりの道に落ちていた小石を撮ったもの。本当は水面にできた波紋とかがあれば、と思ったけれど、持ち合わせがなかったので、色味が私の中のコーネリアスのイメージと近いものを選んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?