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映画日記:ドライブ・マイ・カー

いまさらですが、ネタバレありで感想を書きます。
一見して掴みどころがなく感じたので少し掘りたくなって、二度続けて見て原作も読み返し、劇中劇の筋や監督インタビューを読んで、最終的には、こうして書いて少し整理しようとしてます。
しかも書きかけて何となく一か月以上寝かせていて、今書き上げたのは、他のやるべきことからの逃避行動です。

声について

映画を見る時は、一度その世界を受け入れて、終了後の余韻をもとに、見ながら感じたことを振り返ることが多い。
つまり、ふわっと見て結論なくふわっと何かを考えます。映画という石を自分に投げ入れて、できる波紋を楽しむみたいに。
村上春樹の小説に、一緒に映画を見ると「あなたがこの映画から得た教訓は何?私のはね」てな感じに詰める元カノが登場したことがあるけど、それの真逆です。
ただ、この作品の場合は、「望ましい声」等に関する監督のインタビューを先に読んだので、普段と違って見たいものへの期待が先にありました。
棒読みでしつこくやるという台本読みで何が起きるか、を話したインタビュー。映画でも、相手の台詞を自分の台詞のキュー代わりに使って聴けてない、というような言葉が出たけど、そんな話も書いてあった。
頭でイメージした役の声ではなく、キャラクターというフィルターを通して身体から出る素のその人の声を聴くことで場が一変する、というような話。
その「声が出るまでの過程」が見たくて鑑賞したけれど、部分的な切り取りかつ録音であるし、お芝居にも詳しくないし、鈍感なわたしにはそれほどよく分からなかった。評価記事を読んでいると、声の変化を気づいた人もいたみたいだけれど。
原作で名の無い妻に「音」と名付けたのは、テープの音として残るからか、やはり福音的な意味づけもあるのか?
ちなみに、声についてのインタビューが載っていたのは、尹雄大『聞くこと、話すこと。』という本。

手話の扱い

Twitterでフォローしてる中に聾の人がいるので、手話を題材に使ったテレビ番組や映画へのろう者側からの不満を、時々目にします。
この映画の韓国手話についても、「感動の道具にされてると感じた」「当事者を起用してない」「手話らしさが皆無」との意見を散見していた。
それらを念頭に起きつつも、聴者のわたしがなるべくフラットに見ようと努力したらどう感じるか試したところ、予想より手話の出番が少なかったものの、やはり違和感を抱いた。
耳が聴こえる人が手話を使う設定は、「手話者=聾か難聴」との先入観を壊す意味では価値があるけれど、ストーリー上の必要性(他の設定との兼ね合いなど)が一切感じられず、何だか腑に落ちなかった。
ソーニャが背後からワーニャに抱きついて話す終盤の場面は、あのキーとなる部分の手話を、相手に全体の動きを見せずにしていることに、物凄い違和感があった。手話では動きを見せないと、前もって話の内容を知っている相手にしか、言葉として伝わらない。伝える気がないように見える。読唇を併用しているとしても、唇を見せる必要がある。
エレナがソーニャの「今幸せ?」という核心をつく質問に、顔を向けないまま「いいえ」と答えた場面も、同様に奇妙に感じた。
設定や、台詞に余分な感情を込めさせないという監督の考えを考慮しても、あれでは手話を使わない方が自然だった。聴者の声は大事にしているけれど、ろう者の声である手話を大事に扱えていない。
障害やマイノリティを扱う時は当事者への聞き取りが必要という意識や習慣が、エンタテイメント界全般で欠けてるのだと思う。
どちらも重要な場面なのに、それが気になって映画に集中できなかった。
ただ、濱口監督は、多言語を使ったり(幼少期に引っ越しで世界中移動していたそう)、関西弁の出る映画でも微妙な発音のまま使っていたので、言語について気にする部分が他の人と違うのかも、個々の言語構造の違い自体はあまり見ていないのかな、とも思う。
あの手話が特に感動したのにという人には、TBSラジオのアフター6ジャンクションであった『映画で学ぶ「ろう文化」ラジオ特集』が、おすすめです。
手話で表情の動きが不可欠なのはわたしも知ってたけど、それが感情表現だけでなく文法の役割をしているの、知らなかった。
手話がろう学校で禁止された事件もぼんやり知ってはいたけれど、改めて考えると、沖縄戦の前後で方言が禁止された時のような、生き死にに関わるくらいの切実さで受け止められているのだと、改めて感じた特集です。
参照:前編https://www.tbsradio.jp/articles/detail/?id=53523 
   後編https://www.tbsradio.jp/articles/detail/?id=53741


劇中劇

他もだけど、戯曲は知識皆無なのでちらりググった程度で書いてます。

①サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』
以前『柄本家のゴドー』の動画はざっくりと見たけど、お芝居の発声は苦手でちゃんと見たことはなくて、不条理劇でユーモアと失望がありゴドーは来ない、ぐらいしか把握してなかった。
改めて筋等を確認し、気になったのは、4人だけの登場人物の全員が母語が異なるだろう名前なこと(ロシア、フランス、イタリア、イギリス)。
家福の多言語劇につながるし、歴史や意思疎通についてのバベル的何かを示唆してもいるのだろう。
妻の愛人に引き会わされる直前、ゴドーに会えなくて絶望しそうなのに滑稽という場面から入ったのには、意味があるんだろう。
わたしには、「ゴドー」=「未来の希望」で、かつ表裏一体の「死」という風に見えた。
ベケットって、演劇界のデュシャンみたいな人なのでしょうか。
ストーリー、名前、舞台背景、順番に外枠を捨てて、最後に何が演劇に必要な装置として残るか実験していた?
参照:https://1000ya.isis.ne.jp/1067.html

その②チェーホフ『ワーニャおじさん』
現実にはけっして救いはないけど天国めざして腐らず考え込まず生きましょう、みたいな話が映画のストーリーとリンクしてると思うけれど、こっちは手話の使い方が気になったせいかピンと来ず。
結局死ぬ為に生きるんだね、というおかしみはある。
ゴドーを待つのと同じ。
チェーホフのテキストにちゃんと心動かされるには、音読する必要もありそうだけど、うちの壁が薄すぎてそんなことできない。原語もわからないし。
春樹も他の作家もチェーホフについてよく書いていて、そんなに面白いのかと気にはなるけど、いつか読む日が来るだろうか。

村上春樹原作の映画について

村上春樹の小説は好きだけど、映画化作品は苦手。ちょうどわたしが好きな部分が抜かれているように見える。
流行する春樹小説と、わたしが好きな春樹小説にも、ズレがある。
『ノルウェーの森』『1Q84』は読むけどやや苦手だ。興味深いけど滅多に読み返さない。好きなのは羊をめぐる冒険シリーズと、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。
『アンダーグラウンド』『約束された場所で』はそれ自体は良いけれど、それらを書いた以降に、何か彼らしさだとわたしが思っていたものが変質した気がする。
最新作はまだ冒頭しか読んでない。
最近のインタビューでの言葉を読むと、本人が思い通りに書く技術を身につけた結果、わたしの好みとズレていっただけかもしれない。仕方ない。
ちょうど、松田聖子が海外でボイトレ受けた後の歌い方、みたいに感じる。わたしが一番読みたいものは技術じゃなくて、癖だ。
登場人物のユーモアが年々減ってるのも気になる。

春樹作品で好きな特徴のひとつは、ファンタジックな展開と、文体。
これは映画化は無理、しょうがない。
どんなにCGなどの技術が発達しても、ファンタジーをがっかりさせない純度で実写映画に組み込むのは無理だと思う。ファンタジーやSFは、小説か漫画で描くのが一番いい。想像力の補完に実写やCGは追いつかない。
もうひとつは映画化できるはずの、主人公「僕」のキャラクター。
自我の殻が固く、こだわりも強くてそれで損をしても変えられず、自分リズムでの生活を気に入っているくせに、変わった人達にずるずる引き込まれ、生死に係る(ここ重要)ひどい冒険をする羽目に陥る。
羊男に指摘されたように、出会った人達に自分の一部をつい差し出して傷つき、諦念と共にアン・ハッピーエンドを迎え、いつもの一人に戻る。
「僕」の孤立に共感しているので、映像化ではいつも殻がうまく表現されていないから、全く別物に感じる。
「ドライブ・マイ・カー」の主役の場合は、原作でも「僕」らしさの殻を半分「みさき」に渡しているから、ある程度割り切って見れた。
それにしても、映画は「みさき」の方が情報が多くて、主役の奥行きが少ない。高槻は更に薄かった。スキャンダルで事務所を辞めたせいとしても、ああキレやすいと、何人殺しても足りないだろうよ。その不自然さを、岡田君がやばキャラ経験値でカバーしていた。

別の村上春樹らしさの部分、彼が何度も形を変えて書いているいくつかのモチーフは、この映画では見事なパズルのように組み合わされていて、それには感心した。ある意味、村上春樹小説よりも完成されて春樹らしかった。
監督はそれほど春樹を読み込んでなくてプロデューサーの方が詳しいそうなので、偶然も入っているのかもしれないけど。
これで猫とワタナベ(ワタヤ)ノボルが出ていたら、完璧に近かった。

  • モテて器用で世間からのイメージ(もしくは理想の自分)とのギャップに疲弊している、パートナーも精神的に不安定で、自死か失踪する親友。ツヅキ、鼠、五反田君、木樽、(原作の)高槻など。

  • 妻や直子。生真面目でほぼ美人で、堕胎や幼馴染との別離を消化しきれておらず、失踪か早逝する。直子、『ねじまき鳥』や「トニー滝谷」の妻やカフカ母など。

  • 性行為で何らかの交感をするシャーマン的女性達。シェエラザード、キキ、加納クレタ、ふかえり、カーネル・サンダース派遣の娼婦、ねじまき鳥後半での僕など。
    この部分がいつもうまく読後消化できないけど、神話みたいな不可欠なもんなのでしょうか?

  • ネグレクトや虐待をする親(アメ、カフカの両親や青豆&天吾の親、かえるくん母など)と、される側の子ら(ユキ、かえるくん、カフカ、小林緑姉妹も?)。

  • 冬の北海道、上十二滝町という架空の場所。鼠の別荘地。

  • 戦争のイメージ。羊男がそこから逃げ続けている、カフカやねじまき鳥でも物語の展開上重要な存在。映画で広島の存在は中途半端に感じたけれど、煙草をルーフトップから突き出すシーンで、少し反核平和の火リレーというのと聖火リレーを想起した、見たことはないけど。焼却施設を出したことにも原爆を連想させる狙いもあったのだろうか。

ラストについて

雪の墓参りが良かったので、傷の消滅を確認させるような分かりやすさは余分、韓国に居ることでの謎かけも、わたしは要らなかった。
もし一部の説が言うようにみさきが在日韓国人なのであれば、本編でもう少し出して然るべきと思うし、何にせよ最後は蛇足に感じた。
最後タイトル通り運転シーンで終わらせたくて、その為に何らかの変化が必要なら、犬だけで良かった気がするし、別の犬でいい。
全体的に、やろうとしてることの分かりにくさに対して、脚本が過剰に親切に細部の余白を埋めていて、わたしの好みからするとエンタテイメントに寄り過ぎた。
掴みどころなく感じたのは、そのアンバランスさのせいだと思う。もしかすると、その親切さがヒットの秘訣だったのかもしれない。余白を多く取りたいわたしの好みの方がズレてるんだろうな。
ラストではないけれど、音(シェエラザード)の語りに付け加えていた結びの部分は、とてもしっくり来た。
あの話は「腎臓のかたちをした石」にも似てる。

感想を書きたくなる、興味そそられる話だったと思う。
結局、『ノルウェイの森』の小説と同様、なぜこんなに世間に受けたのか分からないけど、結論としては見て良かった。この映画を見ての興味深い波紋がしばらくわたしの中に広がったから。
三浦透子さんの存在感は素晴らしい。
石橋英子さんの音楽の使われ方も好きだ。
濱口監督が映画に求めているものは、他の監督とはたぶんかなり違う。
どちらかというと、セラピーやオープンダイアローグ、芝居に近い別の何か、なのではないか。そこに興味がある。
けれど、それは不定形の膜の中に水を注ぐのに似た、デリケートな作業だろうし、わたしの感覚からすると脚本はまだついていっていないように見える。わたしが鈍感で機微を感じ取れてないだけ?
高槻が言う、本当に他人を見たかったら自分を深くのぞきこむしかない、という言葉は、正しいけど同時に間違ってもいる気がする。
自分の井戸をじっとのぞき過ぎると、穴以外見えなくなる。
自分の穴でゲシュタルト崩壊する。
ちょうどいい角度と滞空時間でのぞき込む必要がある。
そして羊男が言うように、何よりも足を動かさなければ。
でも、どっちへ?それをずっと考えてしまっている。

キャプチャ写真は、駐車場に乗り捨ててあった車。



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