映画日記:岸辺の旅
悲惨な学生時代の後遺症か、三年周期くらいで、友人との関係性を破壊するような失敗をする、または問題が起きていると感じることで逆に自ら問題を呼び込んでしまう。
自分も他人も信用できない。
問題と常に同居していた頃から、未だに抜け出せない。
常時一対一を保てる相手なら比較的大丈夫だけど、たいていの人とは複数人含めた関係にならざるを得ないので、キャパオーバーでぎこちなくなっていって、自分できっかけをみつけては駄目にしたり疎遠になる。
平常運転として、関係性が壊れていた頃の状態が記録されており、苦しくともそれに戻りたがる体になっているのだろう。
データの書き換えが必要、そこまでの自覚はある。
いい加減医者に頼った方がいいのだろうけれど、いきなり倒れたり暴れたりしない限り、医者は向こうからはやって来ない。
信用できる医者を探すにはお金と気合が必要で、それが無いから困ってる。
嗚呼、悪循環。
最近も自分を放棄したくなって、ふと思い出したのがこの映画だ。
黒沢清監督は『ニンゲン合格』『アカルイミライ』で好きになり、『CURE』『トウキョウソナタ』『散歩する侵略者』とこれを見た。
彼の作品は、淡々とズレた行動をする登場人物が興味深くて、かつ何カ所か心理的ツボを強烈に突く台詞や情景があり、くり返し見たくなる。
今年は、知り合いや関心を寄せている有名人がふいに亡くなることが、やたら多い。
それに刺激されて、数年前突然死した恩師のことを度々思い出す。(亡くなる直前に貰った課題をまだ仕上げていない。)
それに加え、災害やCOVID‑19の流行、段々年を取って死がやや身近になってきたことも、この映画を思い出したきっかけな気もする。
(以下ネタバレ)
あらすじ。
主人公の瑞希はピアノの家庭教師をしている。
大学病院勤務の歯科医である夫優介は、3年前に失踪した。
ある夜、むしゃくしゃして白玉団子を作って食べようとしているところに、ひょっこり優介が帰って来る。
死んで富山の海にいる、遺体は上がらないと告げる。
瑞希は、水辺かなと思ってた、近所の稲荷神社への祈願書100枚を書いたのが効いたかしらなどと言い、見せたい場所や逢わせたい人がいるという優介について、旅に出る。
ふたりは、かつて優介が住み込みで働いた先の人達を尋ね、共に受け入れられ再び働く。
自分が死んでいるのに気づかず新聞配達を続ける老人、妹にした仕打ちを忘れられない手作り餃子を出す料理屋の奥さん、死んだ夫の霊を探し求め魂が半分抜けたようになっている妻。
瑞希は、期せずして彼らの思い残しを手放す手伝いをする。
死者に振り回される瑞希を心配して、死んだ父も助言しに現れる。
生きているかのように旅を共にし、働き、ついには瑞希と体を重ねた優介だが、最後は指先の力が抜け歩くのもままならない状態になり、別れを告げて消えてしまう。瑞希は、稲荷神社の祈願書を焼き、旅を終える。
黄泉の国からの帰り際に振り返る話ではなく、生死の境の岸辺への行きて帰りし物語だ。と言っても成長譚ではなく、死者への思い残しを昇華するだけの話で、それが如何に時間と距離のかかることかを一本の映画で示してくれている。
死者と生者とは当然違いがあるけれど、映画の中では、共に旅したり食事して暮らせるほど近くにいる。
正気と狂気の違いも、同様に紙一重に見える。
風が静かに吹き込んでは、ふっと死者が現れ消える。
祈願書を焼くマッチの箱には、2つの時計が隣り合って描かれていた。
こういうあわいについての物語に、最近やけに惹かれる。
瑞希は自己主張をほとんどしないタイプで、ピアノの生徒の母親にも夫の浮気相手にも小バカにされてしまう。それに傷つきながらも、多少の言い争いはすれど決して態度を変えず、自分でこうと決めたことも曲げない。
欧米人が見ると、簡単に意に従う日本女性というステレオタイプが固定化されそうな懸念はあるけれど、彼女は典型例と言うには綺麗過ぎる。
その綺麗さをどう解釈すればいいかは分からない。男性から見た理想の女性像か、成りたい姿なのか、喪失を抱えた人間の一面を切り取ったらこうなるのか。どれもが正解かもしれない。
ピアノの場面での「もう一度最初から、優しく滑らかに。自分のテンポで。」という言葉が、物語での瑞希の行動を表している。
優介が山の村で講義していた物理学(量子力学)の話。
光の粒の質量はゼロであることについて。
光には、波長の最小幅が質量ゼロとなる点がある。
ゼロは無意味ではなくて、全ての基本であり本来の姿である。
無で宇宙空間は埋め尽くされている。
山も川も人間も宇宙も、無の組み合わせとして存在している。
「岸辺」は三途の岸や優介の死骸のある水辺をまず指すのだろうけれど、廃屋の水漏れであったり、「水が合う」であったり、おそらく水源であろう村の滝や、優介のゼロについての話など、そこかしこに水が登場する。
水はまた、山奥から湧き出て下流の都市へ繋がっている。
山村の人の、これ以上この村から人が消え去るのを見たくはないが留められない、という言葉も、それとリンクしているように感じる。
津波の映像の記憶も。
彼岸との境界線は存在せず、人のいるあらゆる場所に岸辺は現れる。
役者や監督へのインタビューを見ると、心に残る場面として、死んでなお新聞配達を続ける老人島影さんを優介がおんぶして連れて帰る場面が選ばれている。それと、島影さんが雑誌から切り抜いていた花を貼り付けた壁を、瑞希が見上げる場面と。
花の壁や廃墟に変わる場面、料理するところ、死んでも働いてること、水が合う話、子どものピアノ、宇宙の禅のような話など、色々心に残るけれど、わたしが一番やられたと思ったのは、おんぶする直前の会話だ。
島影さんは、妻との喧嘩で重いすき焼き鍋を投げつけた過去があり、知らずにその鍋ですき焼きを作っていた瑞希にくってかかった後(鍋を歴史ですよという言葉が良い)、家を飛び出してしまう。
ワンカップで酔っぱらった島影さんが、迎えに来た優介に「なんでこんなにややこしいんですかぁ」と半泣きで問いかけ、優介は「まあいいじゃないですか」と返す。
「わたしという人間はなぜこんなにもままならないのか」との嘆きに、アドバイスでも叱咤激励でも現状肯定でもなく、そんな風にすっと返せる人はいるだろうか。
誰もが本当はそう言ってほしいんじゃないのか。
でも、生身の人間が相手では、なかなかそれが言えない。
この映画を観ることで、それを言ってほしい言いたいという願いを疑似的に叶えられる。
是枝監督の『ベイビー・ブローカー』やマイク・ミルズ監督の『カモン カモン』でも、似たことを思った。(ミルズの方は、一言じゃなくて質疑応答を重ねる部分で。)
フィクションには、生身の人間と違って、安心して心を委ねられる。
インタビューなどをググっていて、音楽担当が大友良英さん(と江藤直子さん)であったことを知った。
大友さんはわたしの亡き恩師とも薄い縁のあった方なので(小山田さんとの即興演奏の配信より前にも、数度直にステージを拝見してもいる)、気づいた時しみじみ感じ入ってしまった。
映画が発表されて結構経ってから、大友さんがレディオ・サカモトで療養中の教授のピンチヒッターを務められた回で、黒沢清監督と対談をされている。その後の柳美里さんとの対談も興味深いので、要約が書かれているページのリンクを貼っておきます。
黒沢清監督自体がなかなかに興味深いので、掘り下げたい方には藤井謙二郎監督のドキュメンタリー映画『曖昧な未来、黒沢清』もお勧めします。ブレない曖昧さが興味深いです。
キャプチャ写真は川面を撮ったもの。