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地雷拳(ロングバージョン8)

承前

 人の流れは街の血なんだと姫華は思った。
 競輪場を出て原宿に着いていた。
 バイクを駆っていると街の喧騒を忘れてしまう。どこにいても人がいる。普段ならどうでもいいことだけれど姫華は安心した。
「はぁ……」
 ようやく一息つけるようになった。
 ラフォーレ原宿4階の個室トイレに姫華はいた。閉店時間のギリギリに着いたのは、マクセンティウスのおかげだった。覇金の技術が詰め込まれた躯体は瞬く間に姫華を目的地にたどり着かせた。
 四方が壁に囲まれたトイレは、これまで走り続けた身体を休ませるのにはうってつけだった。誰にも見られないだけでこれほど気持ちが落ち着くものなのか。腕を天に伸ばし、体をほぐす。
  格好はスウェットの姿のままだ。手元に視線を落とす。スマホのカメラロール、お気に入りのアルバムから動画を再生する。画面の中にはシャンパンタワーが青と金の照明で煌びやかに輝く。爆音のEDMをかき消すように、ホストたちのシャンパンコールがかかる。
《また見てる》
 この場所にたどり着いてから、姫華は何度も再生していた。
「見ると安心するの」
《どうして》
「あたしが一番、彼を輝かせていたから。この時はね、小計300万くらいだったんだ。なんでもできる気分になるの」
 カメラがホストの一人に手渡された。画面にロリータ調のブラウスを着た少女が映った。
《姫華ちゃん?》
「そう。あたし」
 黒いスーツの腕にしがみついて満面の笑みを浮かべている。照明が煌めくたびにメイクのハイライトが輝いた。カメラが右に動くと、微笑するホストが映った。
《ひどい顔》
 スマホに反射する姫華の顔を見て姉が言った。
「うるさいよ」
 姫華の顔が綻んでいた。自分でも気持ち悪いのは分かっていた。
《これが龍斗くん?》
 龍斗はウェーブがかった黒髪を耳にかけていた。そこから覗く耳には釘のような長さのピアスがいくつも刺さっている。愛らしい韓国アイドルのような顔立ちと、ピアスのギャップが大好きだ。
「大好きな姫様のために俺は……この店で天下とります。ヨイショ!」
 龍斗が高らかにマイクで宣言すると、ホストたちが歓声をあげた。
「よし、元気出た」
 姫華は立ち上がる。今度は、トイレットペーパー置き場に山ほど置いた紙袋に目をやった。
 もっと安心するのは最高の服が揃ってることだ。
「さて……」
 手に持った紙袋の重さに顔が綻ぶ。小さい頃はキャンディ一個で大喜びだったけれど、今はハイブランドのネックレスでも喜べなくなってしまった。
《覇金が追ってきてるんだよ……こんなに着ないでしょ》
「結局買うものを今買っただけだよ」
《買い物中毒者……》
 スマホの充電が回復したことで、姫華は電子決済から買い込むことに成功していた。
 姫華は袋から取り出し、身につける。ストッキングは姫華の脚を人形のように白くした。厚底の黒いパンプスは誂えたような履き心地だった。
「よし」
 姫華はトイレの扉を開き、鏡の前に立つ。
 目の前にいるのは面白スウェットのダサい女じゃなかった。
 ゴシック風の黒いワンピースは、フリルとレースが全体にあしらわれている。ところどころにスウェット生地が使われており、動きやすさも担保されていた。首のチョーカーは金属のスタッズがぐるりと囲み、動くと真ん中の十字架が揺れた。
《カラスのお姫様って感じ》
「ね、いい感じだよ」
 そうだ。申し分ない可愛さだ。
 あたしはこうでなくてはならない。王様が冠をかぶるように、姫華はリボンのヘアクリップでハーフツインを飾った。
《終わり?》
「まさか」
 姫華はMACのバッグを逆さにする。洗面台にコスメがぶちまけられた。
「これからだよ」
 色とりどりのコスメのパッケージは、お菓子の箱を思わせた。姫華はその中からカラコンを取り出した。
《それカラコンなの!? 醤油皿じゃん》
「直径17ミリなんて普通だよ」
 姉の感嘆をよそに、姫華が難なくレンズを入れる。右の黒目がピンポン玉からボウリング玉ほど変わった。
 そのまま迷うことなく姫華は進む。下地からアイメイクまで一気に終わらせた。その間も姉は不安そうに、質問を投げ続けてきた。
《姫華ちゃん。ファンデってこんな白くていいの?》
「どれだけ血色悪くするかが完成度に関わるんだ」
《アイラインってそんなに引いていいの……? それじゃ橋だよ。流石に目じゃないって》
「ここまでを目だと思わせるんだよ。垂れ目で童顔こそ正義なんだから。そのためなら顎の骨だって削る」
《姫華ちゃんも?》
「担当のためならなんでもやる」
 姫華が韓国で顎を削ったのは昨年のことだった。小鼻も整形したかったが、パパとの縁が切れてしまった。
 話している間にもディオールのリップを塗って完成に近づいていた。
「唇の裏に少しだけ色の違うティントを塗ると写真映えするんだよ」
《覇金を潰す時に写真を撮ってるヒマあるかな》
「姉は勉強ができるのに馬鹿だね。無駄だからいいんだよ。それに、もっと暴れればあたしを撮るやつだっているかもしれない。一番最高の可愛さで臨むのがあたしなんだよ」
《そうなの》
「何か言いたいことでも?」
《あのホストのこともあるんじゃないの》
 龍斗を思い出すと、胸の奥が痛んだ。あれから、LINEの返信はしていなかった。
《返さなくていいの?》
「あとでやるから」
 姫華は迷いを断つように手を動かす。メイクが完成した。最後に頬をチークて彩る。姫華の頬に温度を与えた。
 鏡の前にいるのは、スウェット姿の逃亡者ではなかった。
 コーラルのラメ入りアイシャドウと涙袋が姫華の魅力を際立たせる。
 理想の姿ができると、やっぱりぶちあがる。どんなに世の中がクソでも自分だけは可愛いと思える。嫌な気持ちも忘れてしまいそうになる。周りが酸素に満たされたように胸が軽くなった。
《最高だ》
「インスタでもあげとくか」
 姫華は鏡を背に撮り続ける。加工アプリでこね続けた後、投稿した。
《ねぇ、追われてるって言わなかった?》
「そうだよ。だから、上げるんだ。あたしが賭けられるのは自分の体だ」
 いいねが増えてきて承認欲求が満たされる。不思議なことに身体が軽くなった。
 姫華は扉に向かう。
《この後はどうするの?》
「買うんだよ。今度は一週間分」
 姫華はやる気だった。これまで我慢した分のストレスはまだまだ購買意欲にぶつけられる。
 姫華が扉に手をかける。先に扉が開いた。
 立っていたのは警備員だった。紙に切れ込みを入れたような目で、姫華をじっと見た。
「閉館時間ですので」
 警備員は短く言った。
 姫華はスマホに目を落とす。時刻は20時を過ぎている。メイクとシャンパンコールの動画は、姫華の買い物時間を削るには十分だった。
「待ってください……」
「何度もお伝えしましたよね? 閉館のアナウンスが流れていたでしょう」
 警備員はわざとらしく、ため息をついた。姫華が交渉できる余地は少しもなかった。姫華に向ける警備員の視線は鋭い。
「中身、見せてもらえる?」
 姫華のカバンから視線を離さない。
「万引きだと?」
 こうなると、姫華も一歩も引かなかった。
 開いた扉の向こうでは掃除機の音まで聞こえていた。閉館の準備は着々と進んでいるようだ。
「だって君、それ全部新品だよね」
 警備員は姫華の服を見て言った。
「買って着てるだけ。悪い?」
「全身着替えるのか?」
 面倒ごとに巻き込まれないようにしたのが余計に面倒な事態を生んでいた。姉が見事な解決策を考えるのを期待した。
《もうぶちのめすしかないかも》
 姉は何でも最短ルートで行こうとする。今はその時ではなかった。
「……無理だね」
ギュルギュルギュルギュル……
 音が近づいてくる。
「埒があかないな」
 警備員は姫華の腕を掴んだ。
「離せ!」
 姫華が振り解く。姫華の想像以上の力に、警備員の顔が白くなった。小動物に噛まれたような反応だった。
 警備員が何か言った。騒音のせいで聞こえなかった。警備員が苛立ったのか、強引に手を引こうとする。先ほどよりも強い力だ。
 その時、照明に影がさした。姫華が顔をあげた。警備員の背後には扉がある。扉の最上端に赤い蝶ネクタイがあった。ちょうど姫華から見ると、警備員の頭にリボンが乗っているようだった。
 警備員の後ろで大きな人影が、見下ろしている。
ギュルギュルギュルギュル!
 騒音がさらに大きくなった。
《これは……!》
 姉が息を呑む。警備員が振り向こうとした瞬間、姫華の視界が暗くなった。
 最後に見たのは、警備員が肉塊になった光景と、重機じみた大腕だった。
(続く)

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