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ワタヌキさん

 4月の暖かさは、脳液にとろみがついてしまう。あの日はもっと日差しが強かった。
 私は何度目か分からない欠伸をした。机はチェックし終えた漢字ドリルで山積みだった。
 脳内はへんとつくりがあべこべになった漢字で溢れていた。「詩」と「持」の寺はどちらが左だっけ……どちらも左か。
 小学3年生の自信満々の創作漢字は、大人を惑わせる魔力がある。
「佐山さん、家庭訪問なんです?」
 ふと後ろから冴島先生の声がかかった。
「今日で最終日なんです」
「あら、いいですね。私なんかまだ明後日まであるんです。毎日毎日、車で駆けずり回って大変ですよねぇ、昨日なんか……。」
 私は苦笑した。なるほど、水を向けたのはこのためか。どうやら冴島先生は、私で家庭訪問の愚痴をしたかったようだ。
 私は家庭訪問は嫌いではなかった。家庭訪問は生徒の裏側まで踏み込める。学校で制服を着ている彼らも、家があり親がいるのだ。
 親との会話距離はもちろん。玄関の汚れ具合やインテリアのセンス、食生活は全て家の匂いとなる。私はそこから生徒の性格を導き出す。
 昨日行った矢本佳苗の家は太陽と猫の匂いがした。
 家の前は白砂利が敷き詰められ、花崗岩のタイルが扉に続いていた。母親の髪は手入れが行き届いており、よくある付け焼き刃なものではなかった。会話も素敵だった。佳苗と母親の会話する姿を、日の差す窓辺が縁取り、一枚絵のようだった。
 佳苗は学校では一人でいることが多い。それは孤独と結びつくわけではない。
 実際に佳苗の家に猫はいなかったが、平和と暖かさが私に匂いを感じ取らせた。
「先生、口開いてますよ?」
「開いてましたか」
 考えに浸りすぎた。
「それで、今日は誰なんです?」
 私は家庭訪問リストを開く。矢本の次を追う。
「綿貫さんですね」
 ほんの一瞬、冴島先生の顔が白くなった。
「たしかに〜」
 身内の死を知らされたような調子だ。相槌のミスにも気づいてないようだった。
 冴島先生の饒舌はどこかにいった。あれほど愚痴を連射していたのに、「急いでるでしょうし」や「まだ2年目なのに」しか言わなくなってしまった。私が理由を聞くと、聞こえないフリをしていた。
 私は時計を見る。午後4時を指していた。訪問は午後5時の予定だ。
「じゃあ、そろそろ行ってきます」
 私は冴島先生に一礼し、職員室を辞した。
 小さな囁き声が耳にとどく。
 冴島先生が背中にかけた、「風呂場はみちゃダメ」という科白が頭に残った。
「風呂場まで訪問しないだろうに」
 私は独りごちた。
 車は広い県道を走り続けている。畑の広さに見合わない小さな木造家屋たちが過ぎていく。切妻のあばら家同然だ。地面を這いつくばる姿は、日光で今にも死滅しそうに見えた。
 それにしても、冴島先生の異様な慌てぶりは何だったのだろう。
 綿貫さん、綿貫綾子は図画工作が得意だった。
 去年は夏休み課題コンクールに銀賞を取っている。
 タイトルはたしか……「ふだんだじぃ」だ。白い豹のポリゴンが頭に浮かぶ。材質は紙粘土で、丁寧に塗装された表面は、マットな光沢を帯びていた。他の生徒が版画やボール紙での工作を出す中、それは目を引いた。美しい。優れている。しかし、なぜか私は白い豹に吐き気を抱いていた。豹は後脚を屈ませ、獲物に飛びかかる態勢をとっていた。ポリゴンの無機質な角が隆起する筋肉を彷彿とさせる。不自然だ。見ているのは線と面の世界なのに、むせかえるような土と血の匂いがする。角ばった箱の中で、皮膚を剥かれた獣が暴れているようだった。
 綿貫綾子は学校での授業態度や友好関係を見るに、他の生徒と変わらない。だが、白いポリゴンを通して彼女を見ざるをえなかった。
 クラクションが鳴る。
 おっと危ない。車は想像以上にセンターラインに寄っていた。私はハンドルを切る。
 いつの間にか家すらなくなっていた。視界には電柱、鉄塔、畑、群がる烏のみだ。ナビを見る。住所は間違っていない。綿貫綾子の家は、もう目と鼻の先のはずだ。
 そういえば。
 一度だけ綿貫綾子が話しかけてきたのを思い出した。
 去年、新卒採用として四年生を受け持っていた夏のことだ。私は仕事に忙殺され、下校時間になると半死半生で廊下を歩いていた。
「先生、新しい人?」
 後ろから綿貫綾子が袖を引いた。
 白いシャツの上にグレーのワンピースを重ねている。ポニーテールは黒いヘアゴムでまとめ、色があるのはランドセルくらいか。小学2年生にしては大人びていた。灰色の本を抱えている。
 私は気圧されて敬語で返した気がする。
「先生はこれ知ってる?」
 本を開く。
「光の教会じゃないか」
 コンクリートの打ちっぱなしの壁から十字に光が漏れ出している。安藤忠雄の作品だ。
「あはっ、知ってる人はじめて!」
「地元だからね」
「大阪出身なのね。すごいすごい!じゃあ先生にだけ教えてあげるね」
 綿貫綾子が私に屈むようせがむ。
「実はわたしね、教会に住むの。自分の部屋をね、こんな風に自然の光で満たすんだ。それでお風呂場の禍を祓うの。誰にも内緒よ」
 綿貫綾子が指を唇に添えるジェスチャーをする。きゅっと上がる口角を見て、私も釣られて笑う。
「じゃあまた」
 彼女は昇降口へ駆けて行った。
 背中を見送る。赤いランドセルが小さくなっていく。
 ──風呂場は見ちゃダメ
 ──お風呂場の禍

 白いモルタルの家が立っている。直方体をいくつも融合させたような見た目だ。辺と面だ。私は強引に白いポリゴンのイメージをかき消す。今はダメだ。家庭訪問をしなければ。私は家の観察に入った。
 家の周囲20メートルには草すら生えていない。家人の有無は、一台だけとめてある軽自動車で辛うじて分かった。
 扉の前は、畑のように柔らかな黒土が敷き詰めてある。屈んで土の表面を撫でる。微生物たちの匂いが鼻をくすぐった。土は太陽を受けて人肌の暖かさを保っている。
 扉のある家の正面から向かって右側にまわる。さらにまわり背面、左側へ。やはりなかった。
 この家は普通の家の面構えをしながら、窓がないのだ。
 ただ直方体が仲睦まじく接着しているだけだ。
 こんな家は見たことがない……。
 私は息を呑み、インターホンを押す。
「はぁい」
「森山小学校から参りました。担任の佐山です。家庭訪問で伺いました」
「今開けます〜」
 インターホンが切れるのと同時に、カシャッと鍵が鳴る。
 扉が音もなく開く。
 その瞬間、私の胃酸が逆流した。
 強烈な腐敗臭だ。夏の便所と蒸れた生ゴミの臭い、肉の生臭さを混ぜた混沌があった。
 背中に衝撃を感じる。
 私は派手に玄関へ突っ込む。
 私は右手を床につく。だが、掌がぬめって滑る。勢いを殺せず肘から胴をしたたかに打った。
 体を見ると、胸に黄色い液体が付いている。それを塗りつぶすように、赤黒い液体がべっとりと付いていた。
「あんら!ごめんなさいねぇ!」
 顔をあげると黒い顔があった。声でやっと綿貫綾子の母親と判断できた。
「わざわざすみませぇん。遠かったでしょ!お茶飲みましょ!お茶!」
 しきりに話す母親のエプロンにはピンクや焦茶の肉片が付着している。
 こんな状況で断れる人間はそうそういるまい。私は鉄の臭いに戻しそうになりながら、頷くのが精一杯だった。
「上がっちゃって上がっちゃって!」
 母親が先導する。
 正気を保てているのが不思議で仕方ならない。部屋に続く廊下、天井はもれなく赤黒い光沢を帯びていた。血脂だろうか。床には掃除機をかけた跡がある。髪の毛が血糊で奇妙な曲線を描く。
「ささ!遠慮なく〜」
 母親に先導されるまま、すだれをくぐる。
 部屋には人が自生していた。
 上半身裸の老人達が、部屋一周ぐるりと生えている。薄い皮膚の下、肋骨の合間から赤い心臓が脈動しているのが見えた。
「へっへへ。うちのおばあちゃま、おじいちゃまなんです〜。にぎやかでしょ〜」
「へえ」
 母親が人懐こい笑顔を浮かべる。どんな状況でも笑いは日常に感情を引き戻す。
「おばあちゃま達はね。みんなうちの先祖なの。だから警察に言うなんておよしになって。法改正で、三頭親までの殺人は許されるのでしょ?」
「とりあえず綾子さんをお呼びいただいても?」
「あら!私としたことが!さあ、先生お掛けになって」
 私は手頃な赤銅色のソファに腰掛けた。
「アヤコーアヤコー!」
 母親が私が来た側と反対のドアから顔を出す。
 私はその間に部屋を見渡す。
 目の前には木製のテーブルがある。表面には動脈と静脈が張り巡らされており、アール・ヌーヴォーの様式を見出せた。
 血の臭いで鼻と頭がおかしくなっているかもしれない。
 部屋を囲むご先祖さまを再度見渡す。
 一人一人のポーズが違うのに気づく。合掌した即身仏のような老人は信仰に篤い人だったのだろうか。その右側を見る。天に右腕を伸ばし、左腕を胸に当てる老婆がいた。口は縦に大きく開き、歌いださんばかりだ。よほど歌好きだったのだろう。
 さらに目を移す。
 腕を組む仁王像めいた迫力の老人を見た時だった。ぎょろついた両眼が私の視線を追ったような気がする。
 その間にも彼らの心臓はどくどく、脈打っていた。
「アヤコー!」
「まだ風呂だよー!」
 ダミ声が返す。扉の奥から男が出てきた。撫でつけた髪は脂ぎって汚らしい。家庭訪問だぞ。
 だが、左手に大振りの牛刀が見えた時、軽口はなりを潜めた。
 男がソファの私に気づく。
「こんにちは、綾子の父です。今コーヒー出しますんで。オーイ!アイコ!」
「はいよー!」
 アイコと呼ばれた母親が奥に消える。
 父親はテーブルの反対に座った。テーブルに牛刀を突き刺す。
「すいませんね。遠かったでしょう」
「いえ……、ところで綾子さんは」
「この時間は、ずっとお風呂に入り浸りでね。火事になっても出てきやしませんよ」
 父親が自分の物言いに笑う。
 しばらく母親が奥で作業する音だけが聞こえてきた。
「ところでその牛刀は特注ですか」
「ええ。目黒にいい鍛冶屋がいましてね。ご覧の通り、先祖の晴れ姿にはいい道具が必要ですから……」
「私も圧倒されてました」
「でしょう?嬉しいな。去年の先生は取り乱してどうしようもなかったから、あなたになら綾子を任せられそうだ。失礼ですがお名前は」
「佐山と申します」
「佐山さん、ちょうど真上に頭を抱えた老人がいるでしょう。あれは僕が作ったんです」
 父親は、はみかみながら言う。
「あれは父なんです。父は何をするにも考え抜いて行動する人でした。
 幼い頃、書斎を覗くといつも父は頭を抱えて、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせていたもんです。だから加工するときも、こうしようと決めてたんです」
 父親の説明に反して、祖父の像は慟哭していた。父親と祖父の剥製との間に、私はなにやら饐えた匂いを感じる。祖父が幼い父親に虐待する映像が過ぎる。
「コーヒー入りましたよ〜」
 母親が人数分カタリ、と置く。そのまま父親の横に座った。
「それでは……、家庭訪問をはじめます」
「お願いします」
「ではまず、綾子さんの家庭内での様子を教えていただけますか」
 母親が口を開く。
「とっても活発なんです!作りたてのバネみたいにあたりをぴょんぴょん跳ねて!お夕飯の時も椅子に立ったりするんです。ちょっぴり手を焼いてます」
 口を半開きにした白痴の笑いだ。
「綾子は物静かで部屋で本を読んでいる時が多いです。ああ……彫刻が好きでお小遣いを貯めて材料を買っていましたね」
 続いて父親が答える。
 私が知っている綿貫綾子の印象は父に近い。母親の語る姿は容易に想像できなかった。2人の証言のちぐはぐさが気になる。噛み合わない歯車を無理やり合わせているようだ。
「綾子さんの粘土細工はすごいですね。去年、私も拝見しました」
「ええ、私も舌を巻きました。あの日は家族で久々に外食しましたよ。綾子の好きなチーズケーキをいくつも頼みました」
「あら、違うわ!オートミールよ。ミルクをひたひたにしたオートミール。綾子はまだ歯が生えそろってないんだから。お父さんだめよ」
「それもそうだな。すまん」
 またちぐはぐだ。母親は明らかに乳児期の綿貫綾子の話をしているのに、父親は当たり前のように受け取っていた。
「失礼ですが、綾子さんは給食を食べていますよね。健康診断も異常はなかったとお聞きしていますが」
「ええ、異常ありません」
「ええ。この話は終わりです」
「綾子さんについて悩んでいることなどは」
「ありません」
「綾子は健康です」
 語気と比べて、父母の顔には微笑が張りついている。
 異様な圧に私は気圧される。視線を外す。風呂場に続くドアが気になった。
「……綾子さんがいないので、質問します。あのドアの向こうには何があるんですか」
「そんなの……風呂場に決まってるでしょう」
 父親の笑みは崩れない。
「では、お母様はお風呂場にコーヒーを置いているのですか」
 母親はあのドアを通り、コーヒーを取りに行っていた。
 先祖の鼓動だけが部屋に響く。
 父親は祖父のように頭を抱える。
「いいじゃない。見せてあげましょ」
 母親が息を漏らした。
「先生、私たちが綾子を手にかけたと思っていらっしゃるのでしょ?」
「これまでの話のすれ違いに、この狂った空間。十分でしょう。」
 母親が首を振る。父親は顔をあげる。顔の血液はパリパリに乾いてひび割れている。顔に浮かぶのは祖父と同じ苦悩だった。
 私はやっとここで死んだら同じ剥製になってしまうことを悟る。
 テーブルの牛刀を抜いた。どうせ死ぬなら綿貫綾子の現状をみてからだ。
「風呂場を、見せてください」
 切先を2人に向けて、先導させる。震える刃物がどれだけ効果を見せたか分からない。
 扉を抜けると、濃い闇が広がっていた。そして、とっくに馬鹿になっていた鼻でも分かる濃厚な糞と臓物の臭いがした。たまらず、ぶちまける。
「拭き掃除お願いしますよ」
 父親が感慨なく言った。
 空気がぬるい。息をするたびに胃液が逆流しそうになる。体が内臓の中に入ったような感覚だった。
 電気がついた。白熱電灯にさらされたのは白いバスタブだ。赤い液体が満たされた表面に、白い顔が浮かぶ。
 矢本佳苗だった。
 天に目を剥いて、黒髪をざんばらに液体に浮かばせている。私はたまらず彼女を掬い上げた。
 とても軽い。滑らかな白い乳房の下、鳩尾から下が無くなっている。臓物という臓物が矢本佳苗からくり抜かれていた。肉のうろを抱え、私は崩れた。
「先生、驚かせてすまないね。三等親までじゃ綾子は満足できなかったんだ。」
 父親が言葉を継ぐ。
「去年の夏、綾子は事故に遭った。学校の下校が遅れて急いでいたらしい。
 死の境を超えた後、綾子は二つ僕に頼んだ。一つは、自分の部屋を教会にすること。二つ目は加工技術を自分に施すこと。綾子は阿修羅像や、象頭の神に憧れていた。人を超えた神聖な存在にアップデートして祀ってほしいと言った」
「私は昔の綾子が恋しい。でも、綾子が望むから……親は子の願いの奴隷なの……」
 母親がすすり泣く。
「そう……。だから僕とアイコはこの部屋で綾子の部品を取り出しては、アップデートした。学校帰りに1人でいる少女なんて掃いて捨てるほどいる。僕らは1人ずつ丁寧に皮膚や頭蓋をつなぎ合わせて綾子を転身させた。怪しまれないように、養子まで取って綾子と偽って学校に向かわせながら……」
 思考を繋ぎ合わせる。私が最後に話した綿貫綾子は、交通事故に遭う前の最後の姿だったのか。そして、これまで見ていたのは綿貫綾子ではない。
「では本当の綿貫綾子はどこに……」
 私の独白をよそに、父親が部屋の傍らにあるハンドルを回した。
 オイルの注がれていない摩擦音がこだまする。天井から梯子が降りる。血桶に橙の光がさす。
「どうぞ」
 促されるまま、私ははしごに手をかける。
 ぎし……ぎし……
 天を仰ぎ見ると、十字になった窓から紫がかった空が見えた。
 屋根裏はコンクリート打ちっぱなしだった。紛れもなく光の教会そのものだ。
「せんせ……」
 綿貫綾子はいた。人体のあらゆる優性を尖らせた姿だった。神聖と艶かしさの共存する菩薩のようであり、妖しい肉のセイレーンのようでもある。
 ふわり。鼻を掠めるこの香りはなんだろう。嗅覚に集中する。桃や桜のふくよかな匂いに似ていた。
「くち、あいてるよ……」
 綿貫綾子はいくつかの口で微笑む。

 綿貫綾子の家庭訪問は終わった。
 あれから一年経つ。あれから一度も彼女の家には行っていない。それでも、暖かな日差しは彼女を思い出させる。綿貫綾子の代わり身は今日も登校していた。教科書の音読を噛んで、はにかんでいた。日常は続く。きっと明日も明後日も。
 本当の綿貫綾子に会えるのはいつになるのだろうか。
 天井裏の微笑みを私は今でも忘れられない。

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