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「粟田口」は結局どこなのか?

鎌倉期に京の粟田口という場所で開いた刀工一派を粟田口派と呼び、後鳥羽上皇御番鍛冶の久国や鳴狐の作者である国吉、鬼丸国綱の作者である国綱、天下三作の1人に数えられる藤四郎吉光など、刀界で知らぬ人はいない程の名工揃いの流派が粟田口派。
正宗や村正、虎徹などと違い刀に興味ない人が知っているほどのネームバリューはないが、作位では古来より頂点に君臨し続ける一派である。
在銘は極々稀で、無銘でも日刀保の極め(鑑定書)で粟田口が付くだけで値段が跳ね上がる。
これは粟田口という流派がそれだけ高い評価を得ている事に他ならない。

今日たまたま「土屋押形」を眺めていたところ、「粟田口○○兵〇〇尉国光」と銘に「粟田口」を冠した刀を見つけた。
この国光は新藤五国光とは異なり、どうやら粟田口則国の子、または国吉の子とも言われる左兵衛尉国光と思われる。

画像出典:国会図書館デジタルコレクション「土屋押形」より

同時期頃に長船地方で活躍した長船長光の太刀銘に「備前国長船住左近将監長光造」という国宝が存在しているが、この銘を見るに「場所(備前国長船)+官位(左近将監)+刀工銘(長光)」という並びで名前が書かれている事に気が付く。

その考えでいくと先の土屋押形に載っていた「粟田口○○兵〇〇尉国光」という刀も、粟田口というのが場所を示していると考えられそうである。


粟田口ってそもそもどこ?

そこでふと疑問に思ったのだが、粟田口は京都のどの辺なのだろうか。
今まで疑問に思ってこなかったのが不思議な位であるが、この機会に調べて見た。

結論から言えば三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲にわたる地名のようである。
日本地図から徐々に拡大すると以下あたりだろうか。


白川橋から蹴上駅まで歩く途中に「粟田神社」がある。

その周辺には「粟田口鍛冶町」という場所をはじめ、粟田口と名の付く場所が今でも多くみられる。

ちょっと調べただけで古地図と照らし合わせたわけではないのでこの辺りが粟田口の正確な場所かと言われると自信はないが、この白川橋から蹴上付近は奈良時代以前から開かれた土地で粟田氏が本拠として粟田郷と呼ばれていたようである。

平安京が出来ると東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ京都七口の一つにも数えられ、鎌倉時代、室町時代にはここを通って馬車や車借など運送業を営む者が物資を運んだとされる。
江戸時代には東海道五十三次の西の起点である「三条大橋」を間近に控えた事で人や物資の往来で一層にぎわったらしい。(参考:京都観光Navi

そして以下の看板には「この付近には、平安時代の末以降、刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居を構えていた」とあることからやはり粟田口はこのあたりで間違いなさそうである。

(画像出典:京都関東Navi


・終わりに

粟田口がどこか?という疑問であるが、「白川橋~蹴上あたり」というのが調べたところの結果なものの、大変覚えづらいので「粟田神社」あたり、と覚えるのが個人的には良さそうな気がしている。

是非京都を訪れる時は名工達がどのような土地で名刀を生んだのか、粟田口探訪をしてみたいものである。

藤四郎吉光(号:鍋島藤四郎)


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↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)

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