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多くの名刀が焼失した「明暦の大火」

日本刀は火に弱い。
綺麗な刃文や刃中の働き、地景、長い時を経た茎の風合いなどが火により全て失われる。
日本には今なお多くの名刀が残っているものの、残念ながら長い歴史の中で火災に見舞われた名刀も多い。
その天敵とも言える火災の中でも代表的なものが、今回紹介する明暦の大火です。一体どれだけ大きな火災だったのか、どんな刀が焼けてしまったのでしょうか?

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明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)

※今回の記事は「明暦の大火 Wikipedia」を参考にしながら書いています

①明暦の大火はいつ起こったか?様子や規模は?

明暦3年(1657年)1月18日~1月20日に渡り、江戸城と江戸市街の大半を焼失。死者数は3〜10万人とも言われ、延焼面積ともに江戸時代最大の大火事とされています。

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(画像出典:wiki 明暦の大火の焼失地域

上図の補足
①浅草橋で脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざした事で逃げ場を失った2万人以上が死亡、霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡するなどここだけで3万人以上が亡くなっている。

②新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。江戸城の大半が焼失。

③麹町5丁目の在家より出火


「むさしあぶみ」によると火事の様子は以下のように伝えられています。
雨が80日以上も降っておらず乾燥した状態が続いていた事も火が燃え広がった理由と考えられているようです。

「あんなに深い浅草の堀も死人で埋め尽くされた。
その数二万三千余人、三町四方に折り重なって堀はまるで平地のようであった。
あとから通る者は、自分は少しも怪我をせず、その死人を踏んで川向に這い上がって数多く助かった。
重々しく構えていた見附のやぐらに猛火が降りかかり、どっと崩れて、死人の上に降りかかった。
人が押し寄せ、車にさえぎられて、いまだに逃げられない人々は、前に進もうとすれば火が降りかかり、うしろに行こうとすれば火の粉が雨のように降りかかった。
多くの人々は、念仏を唱え、助けを求めるが、前後の猛火に取り囲まれ、一同『あっー』という悲壮感ただよう叫び声は、上は天空に響きわたり、下は金輪(大地の上層)のそこまで聞こえるほどで、身の毛もよだつばかりであった。」
(『むさしあぶみ-明暦の大火(振袖火事) (東日本橋 初音森神社彌宜 田部幸裕編)』より)


②大災害にも関わらず、これを機に江戸は発展

明暦の大火を機に、江戸の都市改造が進み徳川御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)の屋敷が江戸城外に転出し、それに付随する形で武家屋敷や大名屋敷、寺社が移転。
加えて両国橋や永代橋など様々な橋が掛けられ、市街地が郊外に拡大される事で移住も進みます。
他にも耐火建築が進んだり、延焼を防止する為の広い街路(広小路)が設置されました。(上野広小路は有名)



③出火原因の様々な説

諸説あるようですがなかなかに面白いです。

・幕府が放火した説

当時の江戸は急速な発展と人口増加に伴い住居の過密化や衛生環境の悪化による疫病の流行、殺人事件の横行など治安が悪化するなど、多数の問題を抱えていました。
これを変えるには都市をゼロから作り直す必要があったものの、住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁に。
そこで幕府は火事を起こして江戸の街を焼け野原にする事で都市改造が一気に出来るようになると考えたのだと…。
江戸の冬は大抵北西の風が吹くので放火計画は立てやすかったと考えられているようです。
②で書いたように実際に明暦の大火後には江戸で都市改造が行われています。真意は兎も角、江戸城にまで大きな被害が及んでいたりと、結局は幕府側も火災で被害を受ける結果になっています。

・幕府の威信を守るために…説

実際の火元は老中である阿部忠秋の屋敷からだったが、火元が老中の屋敷からだとすると幕府の威信が失墜してしまうので、老中屋敷に隣接していた本郷丸山本妙寺から出火した事にしたという説。
これは以下が根拠になっているらしいです。

根拠↓
火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。(引用元:wiki 明暦の大火


真実は分かりませんが、面白いですね。

④焼けた名刀

明暦の大火により将軍家にあった多くの宝物が焼けましたが、何が焼けたかを記した「明暦三年酉正月十九日火事ニ焼失名物御道具之覚」という記録が残っており、そこに38振の名物刀剣が記されているようなので紹介します。

■吉光
無銘藤四郎
豊後藤四郎
凌藤四郎
飯塚藤四郎
新身藤四郎
包丁藤四郎
米沢藤四郎
樋口藤四郎
骨喰藤四郎
吉光一振ノ陰

■正宗
三吉正宗
八幡正宗
江戸長銘正宗
対馬正宗
横雲正宗
道合正宗
宗近正宗
江雪正宗
伏見正宗

■江
三好江
西方江
上杉江
上野江
紀州江
蜂谷江

■その他
青木国次
三斎国次
岐阜国次
不動国行
小脇指行平
しめ丸行平
野紀新大夫(行平)
上野紀新大夫(行平)
秋田行平
太子屋国吉
村雲当麻
義元左文字
国綱
宗近此作無類


⑤終わりに

明暦の大火について調べた事が無かったのですが、想像以上に大きな火災でした。陰謀論などもあり調べていて楽しかったですが、実際に多くの名刀が焼けてしまった事は悲しい事です。
吉光、正宗、江は天下三作と言われるだけあり、焼けた数もとても多いですね。個人的には聞いたことの無い「号」が多く並んでいました。
他にも江戸市街が殆ど焼けたという事はそれ以外の刀も殆ど多く焼けてしまった事でしょう。
新刀の刀鍛冶ももしかしたら焼けてしまった刀に刃を付けなおす作業(再刃)で暫く忙しかったのかもしれません。結果的に刀鍛冶は少し潤ったかもしれませんね。
焼けた刀身は刃文や地鉄の美しさは消えてしまっていますが、眺めていると壮絶な歴史に思いを馳せる事が出来るのかもしれません。
今回挙げた38口、ネットで検索するとそれぞれ詳細が出てくるので気になる方は調べてみると面白いかもしれません。


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それでは皆様良き御刀ライフを~!

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