102.「カタカムナの底力 外国文明を敬っても 埋もれてしまわない日本の心」

  今日は、どんなに外国人の文化を取り入れても、どんなに熱中して勉強しても、決して失われることがない日本人のこころの奥底に定着している心の柱について書いていきたいと思います。
 
かつて、シナ、インドの文化との接触に当って、自身の長所もプライドも捨てて侮いぬ程のケナゲな献身ぶりで追随し、そしてそれは、以後二千年の間の日本人の血肉に浸み透るまでの深い影響をあたえたのですが、しかし、それにもかかわらず、日本の文化は、シナ、インド等の、東洋文化の中には入りきらないものがあります。思えば、いかにも主体性のない姿と、一部の人々から顰蹙されるほどに一生懸命いれあげたからこそ、他国の民族が、長い歴史の間につくりあげた花を、異質の土壌の上に、本場そこのけに、美しく咲かせることも出来たのです。
しかし、それはあくまで、もとの民族の花とは同じ花ではありませんでした。大概の西欧人は、シナと日本の区別が出来ないのですが、日本人は全く異質のものだという自負をもって居り、混同される事を嫌悪します。自分達の文字を捨てて漢字を採用する程に心酔しながらも、その字にオンとクンをもたせたり、カヘリ点をつけて、ムリヤリに日本語で読み下してしまう等の工夫をこらして、暗に「オノレ」を保持し通した。それも、そのような意識なしにやったことです。
世界のどこの民族に、発音も文法も全く違う異なる文化の外国語を、自国の言葉で読みつけてしまうような、芸当をやってのけた例があったであったでしょうか!しかも日本人自身、そうした事をやって居る、その「オノレ」が何であるかを、認識しては居ないのです。
現代もなお、医学博士たちが、いかに漢方医学を無視しても、庶民は、西洋医学の大病院にゆき、薬品ももらいながら、しかし相変らず、鍼灸指圧や、数々の民間療法も繁昌し、家庭では親子の夫婦でアンマをし合っています。
私達は、長い歴史の眼で、日本民族の動きを見てゆくしかありません。ただ、現代が、過去の場合と異なるのは、それが非常に大量に、スピードを早めて迫ってきていることです。過去に於ては、百年千年の間に徐徐に消化し同化する余裕がありましたが、現代はそれが無いといふ危険があります。「日本人は器用で、カンの鋭い民族だ。」と外国人から言われ、自分自信でも自認するところがあったのですが、しかし明治以後の教育は、直感とか勘とかいふものの価値を認める方向とは反して、むしろカンなぞは、未開野蛮人の属性ぐらいに軽視し、何をおいても我々は、西欧人の合理性を学び、人権や契約の思想を勉強し、近代的自我の確立に目覚めなければならないと、大わらはに鞭達されたのでした。
 
なまじっかな理性や自意識は、人間の行動を鈍らすものであるから、西欧文化の受けとり方にしてもその本質を学ぶよりも、表面的な効果をねらって当面の目標を示し、一団となって突進させる、このような飛びつき方は、一部の人からは非難されながらも、著しい成績をあげたのです。そして「近代化」ということは、国際的に一種の流行であったから、日本も例外ではありませんでした。
しかし、その為に、民族の特質まで放棄せねばならぬような浮つき方は、何といっても、とり返へしのつかぬ、過ちであったと言はねばなりません。日本民族から「カン」の鋭敏さを没却すれば、モトるコもなくなってしまうのです。我々日本人は、長い間、あまりにも不当な教育を強ひられて来ました。この反省は、こころある日本人の胸中には常に潜んで居たので、事ある毎にそれが露出されました。歴史上数々の所謂勤皇運動がそれであり、国学の思想や教育勅語、又戦後の文部省が求めた「理想の日本人像」もその動きとみられていますが、しかし外国文化仕込みの第一線の学者たちに、その任はムリな仕事で、いつも中途半端に立ち消えてしまいました。
私達は、ことに明治以後、国民教育が進んだと言はれながら、その内容は、あまりにも真の教育には程遠いものになってしまっていました。
かへりみずに居られない。我々は、我々が日本人であることの正しい意義も教えられず、さりとて、西洋の文化の正しい紹介もなされず、指導層の無定見な国家意識にひきづられて奮励し、敗戦し、ジタバタ運動、虚脱のあげく、今度は、ムヤミに背伸びして、経済大国を夢みて公害に悩まされるという、アラレもないスガタとなったのです。
それでもなほ民族の恰好を保って居るのは、底辺で支えて居る民族伝統の地の力以外にないでしょう。民族の根となって来たその底力とは、そもそも何に由るものだったのでしょうか?
意識しないでもって居るものの強さは、しかし、一たび意識がぐらつき出すと、はかなく潰える危険があります。この民族の「根」のタシカさは、実はどの民族にも基本的には通じるもので、外国に長く暮して、その民族の「根」に触れた者が、はじめて自分たちの日本民族の「根」に気づくことがあるのもそれでありますが、それは、どの民族も、「人類」としての共通性をもつ故であり、どの民族に於ても、真実を深く追求してゆけば、相通じる知見に達するわけです。真の日本人に徹してこそ国際的に尊重され得る、民族の文化の違いや特色を論ずるなら、少くとも地球的な視野から、この民族の「根」が、何であるかを明らかにした上で、発言すべきであって、彼らに悪戯に左右をかえりみて、近視眼的に日本人の欠点を叩いてみても、日本民族を成長脱皮させるどころか、ツノをためて牛を殺してしまう危険が性があります。一般に日本民族の短所とされるものも、長所と云はれるものも、実は、この同じ根から出た、正反の現象であるからです。
 
観方を変えれば、混沌状態というのも、ある意味で必要な過程であり、大きなマトマリの前には、大きな混乱があるのも必然です。事実日本民族も、歴史上何回か、混乱とマトマリの経験をもって居ます。しかしながら今、我々は、その極限状態に達したと思はれる。即ち、我々の祖先が、カタカムナの文化の伝統を失った為の、その後の長い放浪の歴史は、その間いくつかの、混乱とマトマリの動きを経て、遂に今、最大の混乱に当面し、もしこれが大きくマトマル方向に赴かない限り、崩壊するという、極限に達したと感じられるのです。大きな眼でみれば、それは日本民族のたどるべき、必然的な運連命であったと思われます。日本人に民族の血がよみがへる度に、この失はれたものを求めて、あるいは天皇中心を叫び、国家主義に走り、あるいは神代、神国、神風、などと、ウハゴトのようにとなへて居たのも、全く根のない夢幻ではなく、民族の祖先のココロを秘めては居たのでした。
渦中にあって、真の状勢判断はむっかしいことです。この事は、大東亜戦争時を想起すれば充分であらう。今、日本民族が、重大な危機に当面して居る、といふことは、後になれば、誰の目にも明らかになるであらうが、アレョアレヨと言って居る内に減びるか、それとも何らかの(ァマの)支へがきいて、一般人には「知らぬマ」に、何とかうまくきりねけられるか?……それも一時的か、あるいは当分であるか?……少くとも、今の我々の周辺が、タダならぬ様相を呈して居ることは確かなのです。
 
今日はここまでです。


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