71~75 全公開まとめ記事 カタカムナ直観 幸せな生き方 アマココロの悟り~カタカムナ時代 生きた岩の使い方 イワとイハの違い

71.カタカムナ直観 幸せな生き方 アマココロの悟り
72.カタカムナ時代哲学 アマココロに向かう人の道 知識・財産・困難・苦しみとは?
73.カタカムナ時代 石の生死の見分け方と 種類別活用法
74.カタカムナ時代 岩も生死がある 生きている岩の見つけ方
75.カタカムナ時代 生きた岩の使い方 イワとイハの違い


71.カタカムナ直観 幸せな生き方 アマココロの悟り


人間はどのような考えで生きているのが良いかと、カタカムナ人が直感で悟っていたことについて書いていきます。

目にはみえない直観のコトワリの物理ですが、たてよこに区切りのある形の極みを超越した大きさも形もない存在である、天の始元量というものがあります。

これを言い換えるとアマココロといいます。

四方八方に自由に分裂していく人間の思考は、時々たちどまって天のココロのある無限界(アマココロ)に、帰る道を生きていることを常に考えるべきなのです。

現象以前の無限界の粒子や無限界の実体の波動が、無限界の境を追いはらわれて、各々が個性の区切りのある物に変換(へんかん)して現象が出現します。

その時は、色々な個々の自由に独立した区切りのある球体となります。

従って人のミチも様々に分化変遷するのですが、有限の人の知識をこえた無限カムの根本に帰る道を常に失ってはならないのです。

そうすると、万物は色々な一つとして同じもののない異なり発生をしますが、それがお互いに支え合って、すべての存在は諸々のお陰をうけていることに気づきます。

そのお陰を崇(あが)めることは大切なことなのです。


72.カタカムナ時代哲学 アマココロに向かう人の道 知識・財産・困難・苦しみとは?


人が今ここ生きていることに対する心構えについてカタカムナ人の考えを書いていきます。

万物を尊重することは、すべてに感謝することに通じます。

天とか我とか無我とよばれるものの本質へとたどる道は、四方八方に自由自在に分裂していく人間の思考は時々立ちどまって天のココロ(アマココロ)に帰る道をあゆんでいることを常に考えるべきであると念を押しています。

人の道の根源的な道を説いた歌であり、万人各々個人であって異なっていますが、それがささえあいにつながり万象を存在させています。

すべては、アマの根源のおかげをうけているのです。そのおかげをアガメルことが大切です。

八方に分化しやすい人の道は、カムに帰る道であることを忘れてはならないのです。

自分に生れた時から与えられている天分や、たくわえた知識など「ミ」に(生命の実体)についた財産は、自制して心を抑えながら、自分1人の能力と思わずに他の人やものと交換し合って(カム)潜象の根本に奉仕するこころがまえを常にもつことが大切です。

人が何故生きているのかを忘れないために。

生きているかぎり、悲しみ苦しみも、よじりなわのごとく交互にやってくるのですが、これを人々は全体の悲しみであり苦しみであると感じます。

実際は内と外は通い合っていて、カゴの水のような関係であることを知っている必要があります。

ずっと悲しみばかりではないし苦しみばかりでもないのです。

生涯悲しみ続けるものでもないし、生涯苦しみ続けるものでもありません。

四方八方、自分の考えを分裂させつづけるのではなく、人の道は無限のカムに関する知識が根本なのだと思い出さねばならないのです。

それによって、悲しみや苦しみばかりでなく喜びや幸せが自然な形で身の周りに漂っていることになり、それを人は取り込むことができるのです。

生きているということは無限界に帰る途中の道なのです。

卑しさ(レベルの低さ)貴しさ(レベルの高さ)は各人各様にかくされて含まれています。

また、醜さと美しさも各人各様です。

それぞれが混在して存在している。

卑の中にも貴あり、貴の中にも卑があります。

潜象根本に帰って考える事が人の心に真の謙虚さを生む道であり、皆がささえあって幸せにつながる道であることを、常に心に思い浮かべるべきです。

草も岩も諸々の粒子も生命があっていきている「ミ」(身)です。

それは発生消めつをつづける、尽きないイマイマです。

心をちりじりにせず、カムのもとに帰るために生きていることを常に考えるべきなのです。

努力をしても、生きている内にはつねに徒労に終わる報いをうける時もあります。

それを耐え忍んで、うつろな気分になる時でも、我が身で励ましてこそ、安心立命的な生活が得られます。

くりかえし言いますが、八方に分化しやすい人の道はつねにカム(根本)にかへる途中の道である、という考え方が必要なのです。

そして、そのカムに帰る道を求めることこそが喜びを呼ぶことであり、楽しみを呼ぶことであり、支え合いを呼ぶことであり、幸せを呼ぶことに繋がっているのです。 


73.カタカムナ時代 石の生死の見分け方と 種類別活用法


カタカムナ人が石膏技術の天然自然の循環についてどのように考えたかについて書いていきます。

今年に入って、12万年前の世界一古い研磨技術、加工石器が日本から出土して話題になったので、日本に世界一古い石の加工術があったことは証明されました。

石膏技術イワカムナにも、直観でしかみえない技法があります。

人間に生き死にがあるように、我々のみえる物質全てには、生き死にがあります。

岩石もその一つです。

生きている岩とは、岩自体に電気磁気を帯びているし、成長(大きくなる)もするのです。

人間も、生きている間は電気磁気を発生させています。人間も死んだ瞬間、電気磁気とその回転エネルギーを失うのです。

それでは、カタカムナで読み解いた石器は、生きている岩しか使えない(生きている岩―イキチイワ)と書かれています。

石の見分け方、使い方に耳を傾けてみましょう。

生きている岩は、山奥の峰から湧き出る水源地付近によく存在しています。

ただし、生きている岩は大きな岩の中に存在するので、必ずしも岩の外から電気磁気を計って見つけられるものではありません。

そして岩自体も、生きている岩は、岩の中で成長拡大していくのです。

石器時代の、石の矢じりや石刃などが、古代遺産として博物館等に展示されていますが、実はその矢は、すでに長い月日の間に電気磁気を失っているので、鋭利なものにはなりません。

矢じりやナイフのように、形は残っていますが、鋭い切れ味を保つためには、石が生きて成長期にあることがとても大切なのです。

岩が生きていて成長する。ということが理解出来ますか?

しかし、日本の超古代の物理学ではこのことは良くわかっていました。だから古くから色々な形で歌われていました。

現代の国歌の中の歌詞は、物理的に本当のことなのです。日本の国歌には、この天然自然の摂理が書かれています。

「君が代は とはにやちよに さざれ石のいわおとなりて こけのむうすうま~で」世界で一番短かい国歌であり、国歌世界コンペティションで優勝した国歌でもあり、古い古典よりとられ、わずか500年前に出来た現在の統一国家も、決して12000年前の意思思念を失ってはいないのです。

国家にはいわをがさざれ石になるとは書いてありません。

さざれ石がいわおに成長すると書かれているのです。

学校の理科では、いわおが何らかの形の原因で流されて、川の波にもまれてしだいに小さな石となり、さらに川下に流された後、砂になって地上に残ると習いました。

確かに、人間の目に見える現象はそうなのですが、見えないところで公転自転しつつ、エネルギーはとこしえに生きて、また再び地球を巡って岩へと成長するという循環メカニズムがあることを、我々は知らねばなりません。

それは必ずしも火山の噴火を伴うものではありません。

そして、その生きた石こそ轍よりも鋭利(えいり)に、12000年前の文明の社会の内で、生活の用具として使用されていました。

今のように、退化していなかった脳が全開した古代人の大切な用品の一つとして、その見分け方やとり出し方が書き残されているのです。


74.カタカムナ時代 岩も生死がある 生きている岩の見つけ方


超古代の石器の第二部として、カタカムナ人の手法を書いていきます。

医師が言っているかいないかは、電気磁気反回転エネルギーを直観することによって測量することができない程奥にある、見えない岩の内深くに隠れて生きて成長している岩をみつけ出すのです。

現代の測定器は、岩の生死などに関心のない現代人がつくっているので、深い内核を測って、岩の生死を見つけようとしないだけで、優秀な測定機は、新しい道を見つけ出してくれるかもしれません。

石の中には現代宝石と呼ばれている、ダイヤやエメラルド、ルビー等も含まれています。

ヨーロッパの文明記録の中にも、石のエネルギーを使って、周波数を合わせて体を守るという技法も、医療技術として発達していたと文献が残っています。

すべては物体である五臓六腑を直接治すのではなく、物体と物体で周波数を合わせることによって、体調も整えているという時代がありました。

宝石商とは当時医者でもあったし、むしろその比重が高かったのです。やがて直接的な治療、ワクチンや飲み薬、注射や日常生活としての石は、身につけて美を感じる宝飾品へと変身し、知識は失われてゆきました。

近代医療の得意とする分野、近代医療では、手におえないものは波動調整で整える、という療法のよい所を使う技術のたし算が起これば、より幸せに向かえるはずです。

新技術が発明された時、過去の技術が失われるのは残念な事です。

しかし、この文献を蘇らせ研究を始めている人も表れてきて、やはり時代は調和へと向かっているのかもしれません。

では、当時そのような貴重な岩を、どのようにして見つけていたのでしょう。

カタカムナウタイには、「見にはみえない直観であるが」で始っています。直感を鋭く磨くことによって、生きている岩を見つけていたのでしょう。

その岩は山奥の峰(長城付近)で、水の沸き出しているあたりにあり、生きている岩と言われるものです。

中心部に生きている石がある場合、岩石であるにもかかわらず、植物がよく生息すると伝えられています。

苔だけでなく、大樹もよく生えてくるのです。

それを川の水を利用して、流水加速法を用いるために川に落とし、落差利用の衝撃をうけさせ、打ちくだくことにより、衝撃をうけさせ岩の中にある岩の生命核(結晶核=電子みつ度)を剥ぐ方法により、取り出すことが出来ると書かれています。

流れ石の射角は2倍になると、水の流れは64倍、射角が10度になれば100万倍になることは現在の科学でもわかっています。

カタカムナ人は数値を知っていたかどうかを知るよしもありませんが、直感によってこの生きた石を見つけ出し、おそらく現代のどの刃物でも作れない程の鋭利なはものを作っていたと思われます。

その製造の時、オトシウチの傾斜を重直にした場合、落下速度は極めて大きくなり、衝撃破壊力が一層高められるのでそれを利用する方法であります。

石を水流にのせて、滝にのせて落下させ、直下のオオイシのイワメをはぐ。

実際には川の上流から木通をつくり、大石を移動させたり、破砕させたりしたようです。

 

75.カタカムナ時代 生きた岩の使い方 イワとイハの違い


カタカムナ人が生きた石を見つけたあと、それをどのような加工で道具にしていたかを書いていきます。

生きている石とは成長していることであり、結晶が広がる岩であってもすべて電気性、磁気性をもっているものは生きている生命であり、万物相似象の悟りにはここでも生かされています。

水流で打ちくだく大石の中で水流にうまって頂点だけ出ているものは、この内の内核をとりまいている破砕片は、たくさんの小石を混ぜて水流でもむことによって、石槌をつくることが出来るのです。(円石)

それが岩理から砕いた堅い石の裂理が平らなうすい内面になっています。

石は水流を利用して選びわけ、メウチや石槌で細工して、手斧をつくることが出来ます。(楔石器ともいいます)

また、美しい光沢のある丸い形の石は、目打、槌うちを用いて飾り物の、珠玉につくりあげる。(ひすい、めのう等)

また、材質が堅く、断層的に重なった板のような石は、斧をもちいてイワメとへぎ目打ちを使って槌で打って、様々な形にととのえて道具にしていました。

上記のような手法であらかじめの形をつくった石器は、斧を用いてイハメをはぎ、目打ちを用いて、かきとり臼(ウス)や杵(キネ)手鉢(テバチ)手斧(テオノ)鍬(クワ)等として用いられていました。

このように目にはみえない物理であるが、岩という音にもあてるカナによって石を分類しています。

イワ・・・火山岩のように電気的結晶をもたず渾然としているものです。
イハ・・・イハは生成して結晶をもち電気の正反の出来たものすなわち結晶柱をもったものを言います。
イシ・・・イハから掻きとられた欠片もやがて電気性が失われることは測定器によって証明されていますが、形としては電気性がなく河原にころがっているもの。

当時の分化の1つに巨石を配置して幅射圧を高める技法などがつかわれていたと思われるものが、岩盤やペトログラフなど各地に残っていますが、まだそのサトリはとけていません。

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