86~90 全公開まとめ記事 相似象学の伝承 ヒトツカタ 宇野多美恵の決意~カタカムナ人 潜象物理 鋭い直感

86.「相似象学の伝承 ヒトツカタ 宇野多美恵の決意」
87.「カタカムナ文明 アマ(天然)の側から見た 直観物理」
88.「甦れカタカムナ時代 動物と共存していた 人類の理想郷」
89.「現代科学では 思いもよらぬ解答を示すカタカムナ哲物理学」
90.「カタカムナ人 潜象物理 鋭い直感」

86.「相似象学の伝承 ヒトツカタ 宇野多美恵の決意」


今日は、カタカムナを学ぶ人が参考文献にすべき相似象学の根源にある哲学について説明したいと思います。

人間が本質本性を究明しようとする場合には、何らかの現象に表れたものを手がかりとするしかありません。そして、その手段としては、現在に於ては、百然科学系統の人々はもとより、歴史や、精神の問題を扱ふ人ですら、分解分析、仮説証明と言った、西洋の実証的科学的なコースによって体系づけるのが常道です。そうでないものは、文学の世界、神秘思想、あるいは、特定のグループだけに通ずる独断的な言絶とみなされて、正当な学問の対称としては扱われ難いのです。
学問的な仕事に携わる日本人のとるべき道には、二つの方向が考へられ流ことについてお話しします。

1つは、西洋人の開拓した自然科学的な手法に日本人も習熟して、彼らの定めた約束に従って実証を示し、一歩一歩データを積み上げることにより、その仮説を認めさせるといふものであって、つまり、彼らの土俵に出むいて彼らのルールによって彼らの言葉を用ひて勝負をするわけで、それは日本人には、苦手であるが、今日の時代の趣勢の中で、学問的に業績をあげようとするなら、イヤ応なしに、この方法をとるしかないのです。日本人にとってワリの悪い、不公平な、〈ンデキャップの多い道であるが、既にその困難を突破し、着々と、実力を西洋人にも認めさせて居る日本人が多く出てきています。

これに対し、もう一つの道とは、西洋に発達した自然科学のみを、絶対的な真理探求の方法とはせず、むしろ、彼らの経験や技術、発想法などは、こちらにとり入れて、充分にマスターし、日本人の不得手な面を補った上で、しかも彼らとは異ったアプローチのしかたを以て、独自に真実を探求しようとするものです。
しかし、今はもしそれを敢えてやらうとするなら、それこそ誇大妄想狂の類か、新興宗教のグループの行為とでも混同されるのがオチなのです。

カタカムナ文献の紹介の仕事に当たって、私たちとていずれの道をとるかを考えないわけには行かなかったのですが、どちらをとるにしてもそれはとても極めて困難なことです。

私達の余命は短く、微力の及ぶ範囲はせまいのです。私達は、最後の決意をして、とにかく、私達の祖先の人々の残してくれた 『カタカムナ』献の内容を、現代人に通じる言葉にして伝へておこう、といふ最低の線にとり、あとは、後世の指揮者によって、機会をまつことにしたのである。 『相似象学』とは、その 『カタカムナ』を、現代人の知性を以て解釈して整へたものです。知性とはサトル性であって、知識のことではないのです。

87.「カタカムナ文明 アマ(天然)の側から見た 直観物理」


今日は、現象物理と直観物理言い換えると、潜象物理の違いについて書きたいと思います。
相似象学が、従来の科学の範晦にないと言う所以のポイントは、目に見える現象の背後に、目には見えないが、物理上、確かに実在するところの 『アマ』の始元量を認め、要するに、従来のような、人間の側からの独断的な見解に限定されない、 『アマ(天然)』の側からの視野にたって居る点です。私達にそのような、いはば従来の科学の常識に無いことが可能なのは、カタカムナ文献の 『直観物理』という拠りところがある故です。

今日の学問では、現象に表はれるもの以外を追求しても、それはマトモな「論文」とは認められず、ものが現象に表はれる影には、現象させるだけの条件があり、この影の消息がわからなければ、表れた現象を正当に解明することはできない、と言うのが直観物理の発想なのです。
目に見える森濯方象に 『相似の姿』がみられるのは、その現象の背後に、目には見えぬ潜象ながら 『アマ』が存在し、我々の目にうつるあらゆる現象事象は、そのアマの相似象であるからなのだ、というのがその直観の惑受です。そこで、その相似象を、いくつかの基本的な原型バターンに集約することにより、一見、何の関係もなく複雑にいりくんで居る森羅雅万象を、最も能率よく整序し、そのような 『認識』を誰でも人間が生きてゆく上の、又はさまざまな学問技術を進める上での基盤として、要するに、 『人間の正当な常識とすべきである、と言うのが『相似象学 』のよりどころです。
一般に、日本人は、考へ方にも行動にも、何かのパターンにはめられる事に弱いが、国枠主義者も共産主義者も、仏教者もキリスト者も、同型の精神構造によっている。

しかし、そのようにパターン化によって人が道をあやまるのは、そもそもそのパターンのたて方や、運営、又訓練法が不備な為である。ところで、実は、およそ教育といふことも、何らかのバターン化によってなされるものです。親や先輩が、我が子や後輩に、人頭の過去の経験を伝へる場合、その全部を一々教へるわけには到底ゆかない。万一、教へたとしても、親や先輩の経験に無い事態はいくらでも起りうる。結局、いくつかのパターンにして、一つ教へれば類推、応用がきく、というようになされねばならないのです。

このとき、不適当なパターン化による教育は、人間の独創性を阻害し、批判や反省の精神を摩滅させることを、深く注意しなければなりません。人間に「ヒューマニズム」が考へられるのは当然であるが、それなら、人間が 『人間』であると同時に、といふより、その前段に、 『動物という生きもの』であることの、「アニマリズム」(?)とでも言うべきものがもっともっと研究されねばならない筈です。
アニマリズム等といふ思想はきかないが、ヒューマニズムが「人間の本質とは何か?」を追完するように、「動物とは何か?」「生きものとは何か?」を究明する事です。そのような妥当な認識のもとに地球上の生物としての人間の在り方について正しい観察による『パターン化』があれば、それを知り、訓練する事で、人がその生き方をあやまることはない。それどころか人類は、親から子へ、先輩から後輩へと、少しでもより正当なパターン化が受けつがれる事によって、それが民族の伝統となり、生活の知恵の諺などになるので、要するに、その程度によって、民族の一文化度がきまると言えるのです。このような妥当なパターンは、「本能」とよばれる自然性の原則にのっとって居ます。一般に、本能はひとりでに具るらものだから、調練しなくてもよいもののように思はれがちですが、本能もなお鍛練されなければ、マトモな勘に発育するものではないのです。なぜなら、本能は当然生命存続の方向に発動するものであり、人間の行為の全ては、要するにこの本能に立脚したものでありながら、実にさまざまな行動に変化して現はれて居るのも、よかれ悪しかれ、それぞれの訓練のしかたによる為であり、正当な自然則を知ることの重要さが問われるのです。

88.「甦れカタカムナ時代 動物と共存していた 人類の理想郷」

今日は、自然の摂理の中での人の生き方について書いていきます。
カタカムナ人は、アマの本来性に基づく自然則の中で、動物たちは皆、動物らしく最も自然に生きて居るので、我々にとってそれは学ぶべきものが多い。それを人間が、「動物的」と卑しめるのは認識不足である。もとより動物の本能には、融通のきかない盲目的なモロサがあるが、人間は、本能を意志や経験によって修正することが出来る。しかし、適応にも限界があり、人間には人間としての最も自然な在り方があります。それはおのづから他の動物とも異るものがあって、人間という生理条件、人間の住む地球の自然的な環境条件、集団社会の在り方、経済や道徳をはじめ、広い意味の文化のあり方をふまえて、最も有利な生き方が求められているのであるが、あくまでも、自然側の基本をはづれてはならないのです。
 
要するに、相似象学にいうところの 『基本パターン』とは、人間のみならず、この地球上の全ての生物の生存の基本態度に通じる理を、人間の高度の知性によって認識に表出したものであり、それを「逸脱」しては、およそ生物の生命の健康な存続はあり得ないのです。
 
人間が、なまじっかアタマの発達の故に、他の生物なら本能として保持して居るこの基本態度を忘失するようなことになっては、トンデモナイ馬鹿げたの沙汰である。「逸脱」することは自由ですが、それは即ち「崩壊」の方向に進むと言うことです。
「イノチ」は、つねに「ブラスとマイナスのエントロビー」の両面を刻々に伴って居り、どう生きることが、人間として自然かというマトモな感覚を失へば、しらぬ間に崩壊してゆく。およそ男女が配偶を求めて結合するのは、生物のみならず、原子電子の世界も同じ相似象なのです。
 
したがって人間も生物として頭が発達したなら、その頭をその基本態度をわきまえるためにこそ使われ、訓練されるべきなのです。私たちの遠い祖先の上古代人はそれをしていたのです。それがカタカムナの歌でありました。
彼らは自分たちの把握した悟りを簡単な表象物に託して人々に教えていたのです。
誠に全ての教育に優先して、この基本態度が教えられ、そのような社会的な基盤の上に成立する学問・技術・芸術であってこそ、人間の真の文化生活と言えるものが発言されるはずです。
古来、自然とか宇宙とか天然などという言葉の内に、この消息を直感し、その体験なりの宗教や哲学が数多く作られました。
そして今私達は、私達の祖先の人々の残してくれたカタカムの原語によれば、それら後世のあらゆる宗教、哲学は、カタカムナのサトリの相似象として、観じることを知ったのです。私達の祖先の人々が把握して居たこれ程のカタカエナのサトリ(直観物理)を、もし私達の未熟の故に、現代の人々に誤解させるような、冒涜の罪を犯すことがあってはならぬと畏れるからである。たしかに、この文献の内容が、正しく受けとられさへすれは、現代人に反感をもたれたり、バカにされたりすることは無いのですが、私達が、個々の科学と事をかまへるものではない、と言うのもこの故です。

89「現代科学では 思いもよらぬ解答を示すカタカムナ哲物理学」

カタカムナの時代よりはるか後代の、直観力の劣化した人間が、宇宙の理を探求しようとして、西洋では自然科学が発達しました。我々日本人も直観力は劣化しましたが、自然科学は生み出さなかった。……この事をどう解するか?
イノチとは何か?ココロとは何か?人はどこから生れ、死んだらどこへゆくのか?時間空間の本、質は何か?生物の進化とは何か?遺伝とは何か?男とは何か?女とは何か?要するに人間とは?宇宙とは?…
これらの素朴な問いに、現代の科学者は答えることが出来ないが、カタカムナの文献一は、まことに現代人の思いも及ばぬ解答を示して居たのです。
山に登り海底にもぐり、字宙空間を期けて、多くの科学者が真剣にとりくんで居るのは、自然界に現象として表れたものです。ある物理学者は、地球の地殻構造の説明に、茹玉子の断面をモデルとして示し、又、天体の運動、例えば太陽系の太陽と、地球や水星木星等の遊星との関係を、原子内の電子の運動に例え、又ある生物学者は、人間の胎児の初期の象に、魚の形象を観じて居る…いはば、人類は、下、しらずしらずに、相似象の分類の勉強を、一生懸命やって居る途上なのです。残念ながら、そこにはまだ、カタカムナの直観物理に匹敵するだけの、それらを統率し得る哲学はありません。
しかしながら研究というものは、それが純粋の好奇心からなされる場合、その人は、必ずそれらの現象の背後にある根源的なものを、直感的に感じる筈です。気付かぬまでも、少くとも、その根源から発現して居る方向にさからふような態度はとらないものです。

今の世にも、純粋な好奇心のままに、世俗を離れて研究に打ちこんで居る真塾な科学者もいます。我々人間の純粋な好奇心は、上古代の人々も現代人も変らぬものであり、私達がるものは、この、人間の純粋な好奇心の心の発露のみなのです。今のところは、タメにする者も、純粋な好奇心に任せて居る者もいりまじって、まず着実に、基礎をかためて居る段階です。このようにして、いつか人類も、服大な科学のデータを総括しうる哲学に達するであろうと地道にかまえるのが、謙虚な科学者の態度というものであろうし、おそらく、大勢としてそのようになってゆくのでしょうが……、しかし、もしも、現在の自然科学の方法とは異たる逆の方向から、則ち、我々近代人のもはやもって居ない、純粋の好奇心に基づく鋭い直感の把握によって、人間の生命、宇宙の成り立ち等に関する 『哲科学』を展開した人類の記録があるなら、それこそ識虚にとりあげて、大いに参考としてもよいではないでしょうか。
ここに私達が紹介するカタカムナの上古代人は、今日まで研究されたどこの古代人にもみられなかった、非常に特別な趣きをもって居るのです。

90.「カタカムナ人 潜象物理 鋭い直感」


今日は、カタカムナ人の鋭い直観について書いていきたいと思います。
 
エジブトやギリシャ以来の自然科学の発達によって、はじめて空の星が宇宙の天体であり、我々の地球も、そのバランスの一隅の中に在ることを知ったけれども、それまでの人類にとって、星や月は、神話や物語の対象にすぎぬものであっただろうと思っていました。
又、フランクリン等の実験以後、はじめて科学の知識によって、雷が電気であることを知ったと思っていました。
又、電気にブラスとマイナスがあるだけでなく、正と反の全く異った性質の電気があるということも、原子核物理の発達によって、はじめて最近に至り理論上存在が認められ、電子とか正孔とかと名づけ、近代科学の輝しい成果と称していました。
 
たしかに、それらの実験的な実証して認識した科学の功讃は目覚ましいものです。しかしそれに驚くなら、もっと驚かなければならないことがあります。そのような近代人の認識よりも、はるかに大きな鋭い直観的把握によって、カタカムナの上古代人は、数万年前、既に、雷をイカツチ(電気現象)ととらへ、その電気粒子に、男電気(サヌキ)=陰電子と、女電気(アワ)=正孔陽電子のあることを知って居ました。そればかりではなく、サヌ中、アワの粒子の発生の根源やハタラキについても、こと細かに述べて居るのです。
又、一般に、字宙には現象として現はれて居る 『正』の物質の他に、 『反』の物質のあることは知られず、近代に至ってはじめて理論上考へられだし、驚くべき発見のように報道されていますが、実は、カタカムナの文献には、この 『反』の世界の消息が、実にまざまざと描かれて居るのです。
 
古来人間は、文化的な行きづまり状態に陥るたびに、 『原点にかへれとか、『古代への回帰 』という切り相をもち出してきました。その場合の原点や古代とは、何となく、西洋人ならギリシャ、あるひはベーダウパニシャット、日本人なら万葉や飛鳥あたりを想起するのです。
そして、もしそれよりも昔に人間が生存し、何らかの文化をもったとしても、せいぜいそれは絵画とか、織物や道具などの類にすぎず、まさか、現代の我々の物理学者が追求して居る問題を扱ひうるような人類が、万葉やギリシャなどとは、ケタ違いに古い昔に、生存して居ようとは考へなかった。シナの人々が、何かのたびに三皇五帝神農などと言ひ出すのも、我々は、誇大な中華思想のクセと思い、神話的存在ぐらいにしかとって居ませんでした。
 
そして、人類は、自然科学の発達によって、字宙や物質や生命の問題まで、実証的に考察できるようになれたので、そうした問題を、自然科学以外の方法で解明する物理学があろうとは思ひもかけませんでした。……知らず知らずに我々近代人は、大きな心のオゴリを犯して居たことになる。一たびカタカムナ人の発想がわかってみれば、……天空に鋒え立つ大樹も、もとはと言へば一粒の種子から発し、その種子の前には花があり、その花から種子になる間には、どのような過程が秘められて居たのか?……とさかのぼってゆけば、生命質にしても物質にしても、目に見える時点の細胞や原子等の後だけを追究して、片付けようとする考へ方の方が不合理であり、不自然だと思われてきます。
又、晴れ渡った青空が、俄かにかき曇り、雷鳴とどろき、稲妻が走る、この大きな力は、たった今まで、いったい、あの青空のどこに秘められて居たのか?……又、今も昔も、男性と女性の指先がちょっと触れれば、ピリピリと感じるものがあるし、衣服や毛皮をこすれば、やはりパリパリと稲妻の小型がみられる……、台風や地震や潮の干満、火山の噴火、天体の運行等々の現象は、太古以来現在まで変ることなく現れて居ます。今よりももっともっと自然のママの状態の中に、日夜暮して居た彼らの間に、しかも現代人のような精神のわづらひもなく、欲望の汚染もなく、自然科学の先入見もなく、健康な心身によって百才以上の長寿を保ちつつ、純粋な好奇心のままにそれらを眺めて居た彼らの間から、雷の電気現象や人体の電気生理に通じるコトワリを感じて、それを、電気磁気エネルギー等といふ現代用語とは異なるけれども、イカッミ、マクミ、カラミ、サヌキ、アワ等の、相似象的な言葉づかいによって表明する、直観物理が発生して居たとしても、それは決して、トンデモない、あり得ないことではなかろうと領けてくる。そして、一たんひらけた彼らの眼が、微視にも巨察にも発展して、現代科学以上の適確さを以て、宇宙、万物の物性を感じる知見に達して居たとしても、不思議ではないと思はれてくるのです。



 



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