見出し画像

聖徳太子は本当に尺八を吹いたのか?!

一般論では、

聖徳太子は生駒山で尺八を吹き、この楽器は法隆寺の宝物になっている。

というのが広く知れ渡っているのではないでしょうか。(尺八界では…)

 

私もそのくらいの知識でとどめておりました。


が、


調べて見ると奥が深い!


そもそも、聖徳太子が謎!

 

まずは聖徳太子が登場する「蘇莫者」という曲の説明をします。


蘇莫者(そまくしゃ)

雅楽の曲名。唐楽とうがく林邑八楽りんゆうはちがくの一つとも。管絃、舞楽の両方がある。盤渉調。舞は1人の走舞はしりまい。全体は古楽乱声こがくらんじょう、蘇莫者音取、序、破からなる。

蘇莫者とは西域高昌こうしょう国(現在のトゥルファン)の皮袋の帽子の名。起源は高昌国の散楽か中央アジアの雨乞あまごい踊りといわれ、ものまねの要素が強い。山の神あるいは老猿を表す金色の面をつけ、左手にばちを持って舞う。
元来、天王寺楽所に伝わる秘舞で、聖徳太子が信貴山しぎさんを越えるときに吹いた笛の妙音に山の神が喜悦して舞ったありさまを曲にしたという。竜笛の音頭おんどう(第一奏者)は太子に扮し、舞台脇で四天王寺の宝物である「京不見御笛きょうみずのおふえ」を吹く。聖徳太子を役行者(えんのぎょうじゃ)とする説もある。

小学館 日本大百科全書


こちらの絵が「信西古楽図」に描かれている蘇莫者です↓

画像1
国立国会図書館蔵「信西古楽図」


山の神あるいは老猿。

私はこれを見るまで、山の神をずっとゆるキャラみたいなのと想像してました。

なにしろ笛を吹いたら喜んで飛び出してきたという神様ですからね。

どんなにウキウキした曲だったのかも気になる所です。

 

やっぱりゆるキャラっぽい(顔を変えれば)

しかもこの神様、ガチャピンとムックのムックに似てる…。

むくむくしてる感じが。

(因みに私はガチャピンと呼ばれてました。いつも眠そうな顔をしていたらしい…)

 

画像2


こちらが「舞楽図説」 に載っている蘇莫者。

こちらの説明では聖徳太子は「洞簫」を吹いたとなっています。

そして実際の舞では「横笛」を吹いています。(なんでや…。)


【舞楽図説】

故実叢書の中に在る一冊。故実叢書とは、国文学者今泉定介編の有職故実(古来の儀式・礼法の典型的方式。それを研究する学問)に関する典籍・図版の集大成。 
 

 

舞楽の口伝書『教訓抄』に聖徳太子のことが書かれています。


教訓抄 巻第四
蘇莫者 
聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給ケルニ 馬上ニシテ尺八ヲアソハシケルニ メテテ山神舞タル由近代法隆寺ノ繪殿説侍ベリ・・・

〈訳〉
聖徳太子が河内の亀瀬を通り、馬上で尺八を吹かれた時に、その音色を愛でて山神が舞った。近代、法隆寺の絵殿に説明されている、云々


『教訓抄』の著者が、聖徳太子と尺八について、どの文献を参考にしたのかは不明。

『教訓抄』についてはこちら↓



『一音成仏』第三十二号 徳山隆氏「尺八日本史(三)古代尺八の本格到来」を参照にすると、

 

雅楽書『舞曲口伝』(天王寺楽人によって舞われる「蘇莫者」)によると、

「この舞は役ノ行者が大峯山を通られた時、笛または尺八を吹かれたら山神が大変喜んで舞ったものであり、以来、山神が出現したこの峰を蘇莫者の岳と名付けた」

「聖徳太子が河内の亀瀬で馬上で尺八をもてあそんでおられたら、山神が出て舞った」

「法隆寺の絵殿にこのことの説明はある」

 



また『體源抄』(三大雅楽書)によると、太子が生駒山で尺八を吹かれ、この楽器は法隆寺の宝物になっていたものだという。

江戸時代にこの楽器の展示会が開かれ、その時は手にとって見れたとのこと。現在、東京国立博物館が所蔵。


太子が吹いたのは横笛だという説もある。大阪の四天王寺の宝庫には「伝聖徳太子作」の横笛が残されている。この名器は「京不見(きょうみず)」と命名されている。大事な宝として四天王寺を出ることは無い、つまり京を見る事は無いことからこの名がつけられたという。

 

一方、

梅原猛 著(哲学者)『隠された十字架』「舞楽・蘇莫者の秘密」によると、

法隆寺では太子の霊を祀る祭りの聖霊会が、小会式は毎年、大会式は五十年に一度行われる。

蘇莫者と共に唐装束に太刀を差して、立って笛を吹く人物があり、伝承ではこれが太子43歳のときの姿とされる。梅原氏は蘇莫者の字義から「蘇我の莫(な)きもの」、つまりは蘇我一門の精神的代表者である太子の霊が、蘇莫者という名で呼ばれても不思議は無いとする。

 

と、いうことで、

 

まず、蘇莫者の意味も色々です。

 

そして、

法隆寺には、聖徳太子が吹かれた尺八

大阪四天王寺には横笛

信貴山で吹いたのは洞簫

 

さて、一体どれが本当なの?!


山口正義著「尺八史概説」(2005年)を参照に検証したいと思います。


まずは聖徳太子が尺八を吹いたという記録の一覧です。


「教訓抄」(1233年成立)

『聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給ケルニ、馬上ニシテ尺八ヲアソハシケルニ、メテテ山神舞タル由法隆寺ノ檜殿・・・』

教訓抄は1233成立の狛近真(こまちかざね・1177~1242)著の楽書。10巻。前半五巻「歌舞口伝」後半五巻「伶楽口伝」といわれる。興福寺の楽人であった近真が、家芸を継承すべき子をもたなかったこと、鎌倉時代に入って舞楽が衰退したことを嘆き、後世のために残した舞楽の口伝書。
 

 

「體源抄」(1512成立)第五巻

『昔聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ。即法隆寺ノ寶物ノ中ニ尺八一管コレアリ、昔ニハ物ト云リ。又山神出テ舞大峯ニ蘇莫者ノタケト云テ今モアリト云』

「體源抄」は豊原統秋著(とよはらすみあき)。豊原統秋は室町時代後期、戦国時代の楽家。歌人、書家、本草家としても活動した。


「教訓抄」と「體源抄」は、場所は異なるものの同じ蘇莫者という曲を吹き、古来法隆寺の尺八が太子の愛用品であるとなっている。

 

法隆寺古今目録抄(13世紀)

「古今目録抄に云ふ次尺八漢竹也太子此笛自法隆寺天王寺へ御之道椎坂ニシテ蘇莫者樂吹給之時山神御笛二目出御後ニシテ舞ケリ」

太子が法隆寺から四天王寺に至る途中、推坂(しいさか)でこの笛を吹いたところ山神がそれにあわせて踊ったという伝え。

 

「天野政徳随筆」(1843年)

『體源抄に、上宮太子尺八を以蘇莫者を吹給ふ事をのす。其管今大和国法隆寺の所蔵、今以猶存ず、去る天保十三年六月、法隆寺の尊像江戸にてをがまれ給ふ時、此太子の管政徳手に取て親敷見たり。今の尺八より細く長し。唯漢竹のほそきを切て孔をうがつ。歌口の処、はすに切りたる許にて、角など用ひず。かざりさらになく、不問して千載以上の物なる事しらる、されば、いにしへの尺八は、洞簫と長短ひとしからざる物か。また洞簫の異制か。猶可考。』

天野政徳(あまの-まさのり1784-1861)江戸時代後期の国学者、歌人。
 

 

「歌舞音楽略史」(1928年)

『尺八は、今大和法隆寺に蔵する所、當時の物なるべし。曲尺を以てはかれば、一尺四寸五分あり。 これ則唐ノ小尺の一尺八寸なり、唐小尺の一尺、曲尺の八寸五厘強にあたる。近きころまで、普化僧専ら用ゐし、一節切の尺八といふ器は曲尺にて一尺八寸なるは、後世の製造なればなり』

小中村 清矩著(こなかむら きよのり、1822-1895)国学者・日本史学者。



いや〜、あれこれ色々でてきた💦
 

 

ここで尺八の長さ問題

天野政徳随筆にある「和州法隆寺蔵 上宮太子管 漢竹也」とある尺八の図は、一尺二寸五分で、小中村 清矩著「歌舞音楽略史」によると一尺四寸五分。長さが明らかに違う。

 

 

そしてさらに山口氏は、

「 ただ呂才が初めて尺八を考案したのが「旧唐書」 の<呂才伝>による629年だとし、且つその後日本に伝来したとすれば、聖徳太子は622年没なので、合わない。聖徳太子が尺八を吹いたという故事は疑わなければならない。」と結んでいる。

 

なんと!?

聖徳太子が亡くなった後に尺八が考案されたって事?

今までの史料は何だったの!!!


と、いうことになりますが、

 

もう一人忘れてはならない重要人物

音楽評論、音楽史の権威者、田辺尚雄著「日本の音楽」の一部を抜粋する


「従来それを試みた人は呂才であると称されて居たが、実はそれよりも尚ほ少し以前ではないかと考へられる」

とあります。これは何に基づいてそう推察されているのか書いてありませんが、唐は618年 - 907年、呂才は600年生まれ665年没。

尺八は629年に呂才が考案したと伝えられていますが、「尚ほ少し以前」というのはどれくらい前のことなのでしょうか。

呂才考案以前は籥か籥長笛か洞簫の縦笛が存在していた。

 

「法隆寺にあったけど今は博物館の中にある。これを見ると、唐の尺八と洞簫の中間の性質を持っている。隋の頃のものとして首肯できるが、中国の尺八とは断定出来ない。寧ろ洞簫とよんでおいたほうが良いが,近代の洞簫とは頗る異なり、頗る雅楽尺八に近い」そうだ。

 

なんと、法隆寺にあった尺八そのものが、尺八では無いとのこと。

 

 

最後にまとめますと、


上野堅実 著「尺八の歴史」(2002年)より


「尺八は629年に呂才という人物が考案したと伝えられている。中国においても唐楽が整備されるのは、唐が建国されてからしばらく後のことであったといえる。また蘇莫者という舞も、唐代中期に成立した舞楽のようで我国への伝来は聖徳太子の時代より後のことになる。ただし唐代以前から中国では竹製の縦笛が存在しており、舞楽などに使われていた。したがってそれが6世紀末までに我国に伝わっていた可能性が無いとは断言できない。4世紀半ばからは、朝鮮半島の任郡(みなま)府などを通じて大陸文化が盛んに我国へ伝えられ、五世紀に入ると東晋(とうしん)や宋に遣いを出すなど、中国大陸からの直接的な交流も増すので、何らかの形で古くから大陸の音楽文化がの流入があったと見るべきであろう。」

 

 

と、いうことで、

聖徳太子、やっぱり尺八は吹いてないかも。

 

でした。

 

なんともロマンが無い結果に💦

 

 

ただし、

ひたすら「尺八」にこだわっているので、聖徳太子が吹いたのは、籥でも洞簫でも尺八でも縦笛は縦笛でどれでもいいじゃないかという話です。


が、

 

いやいや、この辺はっきりしといてもらわないと。

洞簫と尺八は構造が違うんですから!

 

 

この際キチンと、

「聖徳太子って尺八吹いたの?」なんて聞くんじゃなかったって聞いてくれた人に後悔されるくらいに、くどくどと説明してあげましょう!笑


見出しの画像

聖徳太子孝養像及び二王子像
Shotoku Taishi and His Sons 1300s clevelandartmuseum

 



古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇