見出し画像

風陽さんの独り言。


江戸末期に生まれ、三代目黒沢琴古の高弟であり琴古四代目の、お侍さんである久松風陽


私は尺八を始めて5年ほど経った時に久松風陽の『獨言(ひとりごと)』に出会いました。以来、彼の言葉は私の中ではとても重要な指針となり、お守りとなっております。


まずは、

久松風陽を知るべし!


久松風陽ザッと略歴。

天明五年(1785)生まれ(本当は1791年生まれ)

(「本当は1791年生まれ」というのは、尺八研究家の神田可遊氏曰く、昔は代を継ぐのに跡継ぎの子どもが若く、年数が空いてしまうと大名を取り消されてしまうだとかで、子どもの生まれた年のさばを読んでいたとのこと。)

徳川譜代、旗本久松家に生まれる。東部尺八長者と呼ばれる程の名手。多数の竹人が家伝の譜本を携えて訪れるが、曲譜の筋道、長短、繁簡が様々に異なっていることに驚き「法器尺八曲譜」と題した教本をつくる。
琴古四代目で、門下には豊田風憬(古童)、二代目荒木古童、吉田一調がいる。

「獨言」は、初心者に向け吹き心得などを理解を与え、横道へ進まないように戒めたもの。

尺八と禅とを峻別し、何ものにも頼らず尺八一本で徹底することこそ本道であるという姿勢について、中塚竹禅は、「尺八の自主的精神が強調され、尺八独自の世界が展開され尺八本位の芸術観が現れた」と評した。

(神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」)


風陽さんは、東部尺八長者と呼ばれる程の名手だったとのこと。


では参ります風陽さんの『獨言』!
長いので、休み休みどうぞ。



久松風陽『獨言(ひとりごと)』

文政元年(1818)

《禅器尺八を志す者の心得》


尺八を学んとするものまず雑念を払い、俗に離れ勝劣の心を去り、気を臍下へしづめ、おのが竹の音にきかしむるを要す。
故に目を閉じて吹くべし。初心は殊に目をとじざれば雑念おこるべし。



尺八をもつにすべて強く持べからず。 強く持てば必凝出こりいずべし。
右の大指と中指二本はしっかりと持べし。 是とてもつよく持にはあらず。


竹に格あり。格は則譜面也、格を破るを法外とす。くれぐれも譜面にたごうなかれ。



めりかり殊に肝要なり。
滅浮めりかりなきは棒吹きといふて嫌ふ。
音はいかにも手強てごわなるがよし。
荒々しきは不好このまず


初心より美敷うつくしきむまみ(旨味)を修行すべからず。
音艶むまみは出来るを好んで出かすを嫌う。


曲をふくに初めより終わりまで蓮の茎を折りたるごとく縁の切れざるように吹べし
息の切目つぎめに心つけて吹べし。おのづから初めよりの縁のきれざる様に吹べし。
ツキイロナヤシなどみな縁のきれまじきためなり。



曲にほど拍子あり肝要也。程を失ふべからず。静かなるはしずかなるに程あり。はやきは早きに程あり。曲毎に程拍子同じべからず。能々よくよく修行すべし。


初心は先ずわざを修行すべし。業成って気合を修行す。上手は業にあらず気合にあり。
気合の修行は業にあり、業ならざれば気合至らず。
初心にして気合にかゝはる時は生涯竹道の理屈者と成て果つべし。迷ふべからず。


「気合」と「業」に関して神田可遊氏の解釈によると、ここでいう「気合」は「業」と対比して使われているので、「精神の力」あるいは「~の精神」という「精神」の意味である。風陽は「気」と「息」を尺八の根源と考えている。英訳では前者はspirit、後者はbreathとしていたと思います。
風陽は業の修行について、細かく書いており、持ち方、メリカリ、拍子、息継ぎ、大きな穴の尺八、連管、暗譜等々。こうした具体的な修行の上に精神の修行があるべきだ、ということ。




たけは鳴るがきとて、ひたすら荒々しく吹つづくるも悪し。
やわらかに手強く吹くべし。


竹音はもの哀れにかなしく閑情なるを本意と覚えたる人あり笑うべし。
尺八を吹くは元来人に聞かせるためにあらず。おのが心を練るの具也。
本来無一物となる者は、是を聞人きくひとあわれあるはますますかなしく、楽あるはますます楽しむ。


哀楽は吹人ふくひとの上にあらず聞人きくひとの上にあり。不可疑うたがうべからず


己が習得しと人の覚し曲の違う事あり共、そしるべからず。
連管の時は相手の人たごうことあらば其手について吹べし。彼は是に吹勝ふきかたんとし是はかれに聞勝ききかたんとするときは竹音乱るべし。


連管は尺八の本音にあらずといえ共、音を合せ人に合せて修行とす。故にたかひにたすけたすくるを要とすべし。


余国の曲を田舎笛などとそしるべからず。幽玄の妙音なきにしもあらず。
乍去さりながらかたくまねべらかず。可考かんごうべし


竹は初心より調子の揃いたるにて学ぶぞよき。
調子あしきたけにて学びつれば己が調子悪くなりて此道の邪道へおもむくべし。
調子の善悪初心にして知る事かたし。されども心切に学べばおぼろげにも知べし。


竹の調子に様々あり。凡は出来たりとも一二優れたるは 三四おとり 四五の程能ほどよきは 二三甲斐なし 五六一つ一つ音声あざやかにして勝劣なきを名竹とす。
甚稀にしてありかたし 大かた五六たり不足ある竹に生まれ得たるなれば 人作にして直すべき力なし。
是等の竹は甚だ調子にしたがひ、己が業をもって調子を揃えて吹べし。

尺八の調律というもの実に難しいもので、到底完全なのは得られない。それぞれの調子をよくのみこんで自分の技でこなしてゆくより外に方法がないといふ意味。
…兎角 銘管というものは少ないもので、その代り愛管といふものは多い。(藤田鈴朗氏解釈)


尺八をひらくに師伝もなく、木賊椋とくさむくの葉を費やして、うはべにつやを出し初学の輩を惑わして金銀を貪る事沙汰の限りなり。天然尺八の妙音を備えたる竹も、微運にしてかゝる 痴者しれものの手に渡る時は生涯かたはとなりて竹釘とさまを替えん。かなしからずや。


とくさむく、とはいずれもサンドペーパーでとくさ(木賊・砥草)の堅くざらざらした茎、むく(椋)の葉は、みがくもの。


尺八を学ぶに曲の手続きをのみ覚ゆる事と思ふ人多し。心得違(い)の甚しき也。
めりかり程調子専要也。手続のみおぼへて後己が見識をもって吹は上手のうへにあり。
初心より中品までの輩ゆめゝゝあるべからず。すべその師たる者を真似るを第一とす。故に師を撰ぶを要として悪きに便るべからず。
手続のみ知りたき人は譜面にて事たるべし。
手続きのみ知りたればとて尺八とは言べからず。
くれぐれも尺八の尺八にあらざるを恐れよ。


おふかた(大方)の人少し尺八のめきたる音の出る時は、もはや我は顔われわがおに人を謗り我よりよきと思ふ人あればいみきらひ、便りて学んとする心はなく陰言に難非なんくせをつけて初心の輩を迷はす。かよふの人 生涯此道にいる事あたはず。
鳥なき郷に入りて正体もなき事を言(いゝ)ちらし俗人をたぶらかす。
此故におのれが到らざる事あらはるゝ時は人にうとまれながき足を止むる事あたはず。
浅間敷あさましきにあらずや。
瓦と成てまったからんより玉となりて砕るこそこゝろよけれ。

「鳥なき郷云々」は蝙蝠のこと。鳥がいないところでは蝙蝠でも鳥のような顔をしている。知ったかぶりをして、いい加減なことを言って人をだましても、ばれる時が来る(鳥が来ればまったくの別物だとわかってしまう)。人に疎まれるようなあさましいことになる。
「瓦云々」は「玉砕瓦全」の説明。瓦のように永らえるより、玉のように砕け散るほうが良いという意味です。

風陽が批判していることは尺八の現在でも起きていることです。
「精神主義」や「原理主義」に対する批判といえます。(神田可遊氏解説)



竹師なるもの、己よりきとおもふ吹人あらば、其人の竹音を我竹弟に聞かせ、教え導くこそ本意なれ。さればとて其竹弟はなるゝものにあらず。其師ゝゝの見識によるべし。

師匠たるもの狭い了見をひろげて、いゝ音色よい技倆があったらそれを弟子達に學ばせるようにせよといふのである。何もそれで弟子を取られるの離れるのなどの事はないものだ、どうせ離れる弟子なら離れる、その師匠に見識があれば離れるものではないといふ意味。(藤田鈴朗氏解説)


〈おわり〉



こちらは、久松風陽の菩提寺、霊亀山慶養寺(東京都台東区)。残念ながらお墓は残っていません。



風陽さんについて詳しくは神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』の中の『尺八名人・奇人伝』にも掲載されているので是非ご一読を。



さて、

この長い長い戒めの言葉を『独り言』と題するあたり、風陽さんの言いたいことが分かる気がします。

これはオレの独り言なんだから、後は自分で気がつけよ😏

と、でも言いたげです。



尺八と禅とを峻別し、何ものにも頼らず尺八一本で徹底することこそ本道であるという姿勢。

尺八道を貫いた風陽さんの獨言を読み直して、今一度自分の精神、姿勢、技術など初心に帰って見直してみませう!



以上、『風陽さんの独り言』でした。



参考文献
神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」
値賀笋童著「伝統古典尺八覚え書」

古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇