明治時代の雑誌『風俗画報』に描かれた虚無僧
以前のnoteに、四代目歌川広重による『江戸府内絵本風俗往来』の普化僧(こもそう)について書きました。
その中に、「曩に風俗画報の中に悉く載せられしかば」と、『風俗画報』に、なにやら虚無僧のことが詳しく書かれているとの記載がありましたが分かりませんと書いたところ、なんと、いつものように尺八研究家の神田可遊師が持っておられ!ご厚意で貸してくださいました。
この風俗画報、通巻478号。号数外の増刊を含めると総冊数は517冊。
と、すごい数の刊数の中から、神田師は古本屋で探し出しだされたのだそう。見出し画像にあるのは復刻版。表紙が綺麗です。
蓬軒という著者が「虚無僧一〜七」にわけて、虚無僧の歴史、慶長之掟書、本則、虚無僧のいでたち、一月寺のこと、末寺のこと、留場のことなど。そして、仙石騒動について五〜七まで紙面が割かれている。
句読点無しでびっしり。ただしふりがながふってある。
出典元は無く、「聞得たるところによると」と書かれている箇所もあり、正確さの判断が難しいので今回は一つ一つ精査はしません。
全部読み解いていったら半年くらいかかりそうです。
ということで、
気になった箇所の一月寺について書かれているところを抜粋してみました。
一月寺の様子が書かれている。
明治以降は敷地は麦畑になってしまったとのこと。
西の方には竹林が残り、その傍らに金先禅師の墓と、その他住職の墓碑がある。現在萬満寺にある墓の中に、金先禅師の墓は無い。この頃には存在したのだろうか。
近くのお堂の中には、釈迦如来と箭根不動があるとのこと。
こちらは神田可遊師が1981年に撮られた矢根不動尊像の写真。
現在の博物館は普化禅師像と釈迦如来像は展示されているが、金先古山像と矢根不動尊像は倉庫に保管されたまま。
こちらは松戸市文化ホールの一月寺の展示会説。
博物館が出来る前にはこちらに展示されていたようです。
位牌もあるんですね。
門札、寺紋額も見たことが無い。
キリが無いのでこの辺で。続きには、留場のことが書かれ、いくら納めただとか、本山には住職、弟子、留守役が何人いたとか、飯炊男も二人いたなど詳しく書かれている。
こちらが、あの一月寺の絵。
松戸市博物館にも、この『風俗画報』の絵が展示してある。
松戸市博物館の写真はこちらにあり↓
普化禅宗 虚無僧寺総本山 一月寺について☆其の一
この絵にある「葷酒可許入山門」の碑と、実際に万満寺にある「雖為骨肉同胞 不許無案内入」の碑について書かれているので見てみたい。
まずは「葷酒可許入山門」について。
通常は、禅寺の山門の脇の戒壇石に刻まれる言葉で、「不許葷酒入山門」
葷酒は、心を乱し修行の妨げになるので、寺の門内に持ち込むことは許さない。ということ。
なのですが、一月寺の門外にあるのは、「葷酒可許入山門」
松戸市博物館に展示してある『風俗画報』の絵を見て、絵を描いた人の間違いであるかと思っておましたが、文章にも「葷酒可許入山門」とあり、両方間違えたとも思えない。
本当に一月寺は許されていたということなのだろうか?
「雖為骨肉同胞 不許無案内入」については、
昔は「「雖為骨肉 不許入」だったけど、寛政年間に「無案内」の三字を足したとの説明。
実際は「雖為骨肉同胞 不許無案内入」とあります。
裏面は、「嘉永三年歳在庚戌春三月 蒼海反熙建之」
こちらに写真があります↓
普化禅宗 虚無僧寺惣本寺 一月寺『探墓行』☆其の二
変わりまして、
こちらは、羽前米澤盆踊の絵。
虚無僧の少し前に、天蓋みたいな被り物をしている虚無僧風な人がいて面白い。
仮装大会みたいな盆踊で楽しそうです。
黒石盆踊りでも虚無僧やら色んな仮装の絵がありました。
現代の盆踊りでは、郡上踊りで面白い格好に仮装した人が、バキバキにキメて踊っているのを動画で見ました。カッコ良かったな〜。
虚無僧で盆踊り、いつかやれるといいな…。
まずは踊りを覚えねば…。
いや、私よりも、虚無僧装束持ってる方々、是非虚無僧で盆踊りを!
絶対カッコいい!
貴重な史料を見せてくださった神田可遊師に感謝です。
明治時代の雑誌『風俗画報』に書かれた虚無僧についてでした。
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇