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創始伝説「虚鐸伝記」を読み解く 其の三☆寄竹登場!

さて、前回は法燈国師(心地覚心)が中国、宋に行き、張伯の子孫、張参と仲良くなり、虚鐸を教えてもらい日本に帰国した。というところまでやりました。

 

まさに、日中(日宋)友情物語。



 

そして今回は、寄竹きちくの登場です!


寄竹とは法燈国師の弟子。

 

京都明暗寺の開祖で、虚竹のこと。



虚霊山明暗寺発行の『虚霊山明暗寺』に記載された、明暗寺安牌並びに法系世代に拠ると、虚竹は開祖となっています。


明暗開祖虚竹了円禅師 
永仁六(1298)年七月二十八日寂


心地覚心も学心となっているし、虚竹も寄竹と『虚鐸伝記』では名前は変えられています。何故かは不明。



寄竹、法燈国師に虚鐸を授かるの図 





以下「虚鐸伝記」と「虚鐸伝記国字解」の写しと、私の簡単な訳です。

 

山本守秀注釈・河本逸童増補『虚鐸伝記』 
国立国会図書館所蔵


 

徒中有寄竹者以禅心殊切敬師益甚

とちうとは、学徒とも徒弟とも云事にて、弟子のなかにといふこと也。あまた多き弟子の中に也。きちくなるものありとは、其あまたの弟子のうちに、きちくという僧ありけるがいうふ事なり。
ぜんしん(禅心)せつなるをもって、師を敬することますますはなはだしとは参禅の心のことの外に親切なるゆえ、師を敬する事もますます日をふるにしがひはなはだしき也。


学心のたくさんいる弟子の中に寄竹というものがいた。大変優秀で師匠をとても尊敬しており、とても親切で師をうやまうことも日に日に深くなっていった。
 


 

学心亦親眤之異于他弟子一時学心告之以在宋之時伝得虚鐸音今尚能調之且謂欲長授于汝而嗣此之伝

がくしんも又これをしんじつ(親眤)すること、たのでし(弟子)にことなりとは、寄竹がことの外まことの心を以て、うやまふ故に、がくしんもこれを親しみ、むつまじゅうせらるゝ事は他の弟子よりもことによろしかりとなり。いちじかくしんこれにつぐるに、宋にありし時きょたくのいんをつたへて、今なほよく是をちゃうする事をもってすとは、ある時がくしんがきちく(寄竹)にはなしのついでに申されけるは、われむかし宋の国にいたり禅学せし時、張参という人より、きょたくというものをならひしが、今にその吹きやうをよく知りてをると語らる。かついふなんじにさづけ、たへて此いんを、つがしめんとほつすとは、その上おもふに、なんじに此のきよたくをつげをしへて、永く此法をつがしめんとおもふなりとありししかば。

【親眤】ちかづく・なじむ


寄竹がとても学心をうやまってくれるので、他の弟子よりも親しくなり、昔宋に行って虚鐸を教えてもらった事を彼に教え継承したいと思った。


 

 

寄竹踊躍拜謝伝此之音熟習嗜弄日不置

きちくゆやくはいしゃしとは、ときにきちく、師の仰をうけてよろこびにたえず、ゆやく(踊躍)とはおどり上がり、こは有り難き仰せかなと、うれしくおもひ三拝して礼をなし此調子をならひうけ、よく/\おぼえじゅくし、毎日/\怠らず、禅のいとまにはもてあそびてすきこのみけるとなり。


寄竹は熱狂的に喜んで感謝し曲を習い受け、よく覚え理解し、毎日さぼらずに練習して吹いた。

 


他弟子國作理正法普宗恕四人亦良能学此管世稱之四居士

他の弟子、こくさく(国作)、りしょう(理正)、ほうふ(法普)、そうじょ(宗恕)の四人もまたよくこのくわん(管)を学ぶ。世に之を四こじと称しけるとなり。


寄竹の他の弟子、国作、理正、法普、宗恕も虚鐸を学んだ。これが四居士と呼ばれる。

 



後年寄竹以行脚之志告暇且請道路毎戸発此音以為往来使世人知此妙音

こうねん、きちく、あんぎゃの志しをもっいとまを告げ、かつだうろごと(道路毎)に此のいんをはつしてわうらい(往来)をなし、世人をして、此のめうおん(妙音)をしらしめんとほつすとは、しかりし後きちく諸国をあんぎゃののぞみにて師匠にいとおまをねがひ申しうけて、人の家ごとにおもてにて、此のきょたくをふきて世間の人に聞かせん事をねがひし事也。


数年後、寄竹は師匠に、諸国行脚して門前でこの虚鐸を吹いて皆に聞かせてあげたいと願い出た。

 


山本守秀注釈・河本逸童増補『虚鐸伝記』 
国立国会図書館所蔵


学心曰善哉志也 

がくしんのいわく、よいかなこゝろざしやとは、まことになるほどそれはよかろふ、よひおもいつきかな。くわん(管)を吹いて人の心を楽しましむるも衆じゃうのゑん(縁)と成り、心をすます種となるという心もこもれり。

【衆生】 迷いの世界にあるあらゆる生類。 仏の救済の対象となるもの。 いきとしいけるもの。 有情(うじょう)。


なるほどそれは良い思いつきじゃ。良い修行になるわい、と学心。尺八を吹いて人の心を楽しませるのも、人の縁となって良いことじゃ。

 



於此直発紀無日到于勢州朝熊嶽上虚空蔵堂下

こゝに、おひてたゞちにきしう(紀州)を発してあさくまがたけ(朝熊嶽)のうへにある、こくうざうだう(虚空蔵堂)の下のにいたるとは、たゞちにとはすぐという心なり。はつしとは、発足して寺を出る事。ひな(日無)くとは、ひかず(日数)なくほどなくなり。 


寄竹は直ちに紀州を出発して朝熊嶽の上にある虚空蔵堂に着いた。
 

 


 

 

今回はここまで。



 

「虚霊山縁起並に三虚霊譜弁」(1735年)の後に書かれた『虚鐸伝記』

この『虚鐸伝記』の四居士、國作、理正、法普、宗恕、の四人は、覚心が日本に帰朝してから登場している。学心の宋滞在の頃の物語には登場しないし、一緒に来たとも書かれていない。突然、寄竹の登場の後に登場する。その44年前に書かれた「虚霊山縁起並に三虚霊譜弁」(1735年)には、「宋地国作、理正、宗恕、法普之四居士随侍来于我邦」とあるので、こちらには宋から四人の居士が来たと書かれている。 
森田洋平著『新虚無僧雑記』によると、『虚鐸伝記国字解』は、1779年に山本守秀によって編纂されているが、その五年前、即ち安永三(1774)年に不法な虚無僧の取締令が出されているので、出版元が京都である事等から、京都明暗寺が関係して出版されたのではないかと推定される。とのこと。いずれにせよ、44年後にも、虚無僧に有益になる創始書が必要だったのでしょう。



門付けの始まりを伝説に盛り込む。


寄竹が諸国行脚の旅に出て、門前で吹き人々に聞かせたいと願い、法燈国師がそれは良い志だ!という場面がありますが、中世の頃に、乞食芸能者である薦僧が、門前で尺八を吹き始めたようです。

この「虚鐸伝記」の法燈国師の時代は、まだ挿し絵にあるような根を使った尺八ではなく、穴が六つの古代(雅楽)尺八時代でした。




重要人物は大陸から

「虚鐸伝記」を書いた遁翁も、普化禅師の鐸の音を尺八に映した張伯も中国大陸の人。関東系虚無僧寺院の祖も四居士のうちの一人の宝伏となり、一応中国人ということに。ついでに関東地方虚無僧寺総本山の一月寺の開山、金先も宋人ということになっている。仏教伝来は大陸からということがよく分かります。明治時代頃までは、外国と言えば中国。第二カ国語は漢語であって、今でいうエリート達は漢語を書いたり読んだりしていた。今では「勉強するならまず英語」が主流となっていますが、この頃の知識階級の人々はまず漢文を学んだのでしょうか。あと、古文書によく見られるのが崩し字。今はひらがなが統一されていますが、その前は色んなパターンのある崩し字も解読できないといけなかったのかと思うと、昔の人すごい。崩し字オンパレードの古文書を前に、ただの絡まった線にしか見えない現代の日本人の私は情けないばかり。
話は逸れますが、歴史学者の磯田道史氏の小学校の頃のエピソードで、岡山県ご出身の磯田氏の実家には、古文書が残されており家族の誰もそれを読めなかった為、自分が読まねばと勉強そっちのけで解読し、大学に入学するときはすでに江戸時代のネイティブ状態で、勉強は楽々だったそうです。うーん、すごい…。



話は戻り…、


それにしても、寄竹という謎の人物を登場させ、その重要人物を外国人という設定にした中々入念な創始伝説です。

  



現代に生きるぼんやりした我々の頭をひねらせてくれる物語を遺してくれたということで、まだこの先に続く伝説を楽しみましょう♪



参考文献
中塚竹禅著『琴古流尺八史観』 
森田洋平著『新虚無僧雑記』



其の四はこちら↓


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