見出し画像

普化宗成立の証し?『高野山文書』の中の『暮露薦僧本則』とは?!


普化宗とは、虚無僧が属した宗派のことなのですが、その始まりは、はっきりとはしていません。

中世頃に発祥した薦僧、いわゆる虚無僧の前身で、彼らは菰で出来た御座(敷物)を持ち歩き「尺八吹奏を芸能とする仏教系の乞食芸能者」ということで、それらが集団化し、1600年代には虚無僧の母体である普化宗の原形が整っていったわけですが、一体いつ頃から『普化宗』という宗教団体になったのでしょうか。

因みに宗祖であるはずの普化禅師は弟子をとっていないので、普化宗は唐代から引き継がれているわけではない。



その初期の頃のことが記載されている、『高野山文書(こうやさんもんじょ)』の中の「暮露薦僧本則(ぼろこもそうほんそく)」読み解いて行きたいと思います。




まずは、

高野山文書とは?


高野山金剛峯寺ならびに山内の各子院に伝来した古文書の総称。 このうち最も重要なものが宝簡集、続宝簡集,又続ゆうぞく宝簡集と呼ばれる文書群で、宝簡集54巻692通、続宝簡集77巻・6帖831通、又続宝簡集167巻・9帖1979通からなっている。

 平凡社世界大百科事典 第2版より



『高野山文書』めちゃめちゃいっぱいある💦



保坂裕興著『17世紀における虚無僧の生成』によると、17世紀のコモゾウ(薦僧)について多くを語ってくれているのが、和歌山県由良町興国寺、当時は臨済宗妙心寺末に残された1628年の年記がある。

この「暮露薦僧本則」という表題は『高野山文書』編纂にあたって、前半の「薦僧」についての説明、末尾に「暮露」とある記名、「海道本則紀伊國由良ヨリ出」とある端書、の三点に注目してつけられたもの。



暮露に関してはこちらを参照下さい↓



17世紀はじめの文献史料に現れるコモゾウ(この頃は薦僧、古無僧などと呼ばれていた)についてはこちらをご参照ください。




暮露薦僧本則
『高野山文書. 第9巻』 高野山文書刊行会 
国立国会図書館蔵


3ページ分を繋げてみました。


こちらの文書では「暮露虚無僧本則」となっていますが、本文には「虚無僧」という文字は無く、薦僧となっていること、保坂裕興氏も「暮露薦僧本則」と記していることから、薦僧と明記しました。



内容は質問形式で書かれています。

暮露薦僧本則 本則
(拡大図)



〔興国寺文書 第十一〕

一九七 暮露虚無僧本則


(端書)(異筆)

「法燈国師帰朝之節連来四居士、國佐、理正、僧恕、宝伏」

(端書)

「海道本則紀伊国由良ヨリ出、」


端書き(序文)には法燈国師が1200年代に入宋し、帰国の際に四人の居士を連れ帰ったとされています。そして、和歌山県日高郡由良町にある興国寺の発祥だとのことです。

(注意☝️これらの事は伝説とされています)



以下、質問を太字、次に回答。




薦僧は何処から来たのか、
暗頭來也、暗き国からか、明頭來也、明るい国からか、

(普化禅師に連なる者の表明を意味します)

薦僧の被りたる笠は何か、それは天蓋とも申すなり、

肩にかつきたる布は何か、神の前での御斗帳 (1)、仏の前での鐘の緒、虹蟠ともいう、

背負った二枚の御座は何か、サンである、地水火風空の義なり。下一面目は三無不可得 (2,3) のしめかくしのぎなり、

中に入って背負った袋は何か、それ天地を沙汰した軒坤とも申すなり、

上に着たる網は何か、海道を囘(めぐ)るための定袋とも申す也、

結びたる縄は何か、有無の二字とも申すなり、

前に入れたる袋は何か、五体を表するなり、夫六腹(それ六波羅蜜?)とも申すなり、中に入れたるは有雑無雑、色は青赤黄白黒也、

薦僧のもちたる竹は何か、尺八者薦僧の重宝を以て四節四穴と表する也。裏一穴は一心菩提明と表するなり、内の暗は閻魔の法界家なり。三つの節は三身一体、本の切口は胎蔵界、上の切口は金剛界、上の円き歌口は心月明のまなひ也、合て七百餘尊也、神の前にて吹く時は、五衰三熱 (4)の苦を除かんか為なり、仏の前にて吹く時は、無明煩悩の眠りを覚まさんか為なり、智者に向かいて吹く時は、平等専一切の息を長め、無明凡身 (5) を払って吹くべし、それ平人に向かって吹く時は、五相(6)十相及び盡(尽)囘向かうと云う也、

薦僧と云うその水上を立つぬるに古くもなく、今もなし、亦云、三界は無法、見もののままに、柳は緑、花は紅とも申す也、コモというその水上のなかりせは、世に落ち人の家はなきもの、さて亦長門にて赤間カ關(関)、洛陽にて相坂に関、奥州にて白河二所に関、三関今役なくして、天地同根、萬物一体、天地豊穣のこもに、関も役もなし、

薦のはいたる草鞋は何か、盤石ばんじゃくを蹈(踏)定めんが為の草鞋なり、

歌に云う、尺八の声の内なる隠れかをたずねて見れば元の竹かな、切れこもは見事な竹持ってそふ(候)、五尺の境界すごさんがため、薦は目をあまた持て、何故に独り寝をするそ、面は四目也、前は人の目なれは、終に我とねる故に、尺八聴聞の方は、一息頂截断(せつだん)の心をなし、無明凡身をねむりを払って聴聞を致すべし、
歌に云う、尺八の声の内なる隠れかは、宮城野に吹く春風かな、

薦の棒は何か、ギゝすれば白雲萬里、

薦僧の指たる刀は何か、屏風か布団か、普化は七腰さしたと申、



1.【斗帳(とちょう)】帳台の上を覆う布、また神仏を安置した厨子 ずしがん の前などにかける小さなとばり。 金襴 きんらん緞子 どんすあやにしき などで作る。ますをふせたような形をしているのでいう。
2.【三無(さんむ)】 無記・無利・無益の三つをいう。仏が認可しない、その理由について、善悪いずれでもなく、利得も利益もないと示したもの。
3.【不可得(ふかとく)】すべての存在はくうであって、固定的なものは何も得られないということ。
4. 【五衰三熱(ごすいさんねつ)】のがれられない苦しみ。
5.【凡身(ぼんしん)】 煩悩に苦しみ迷う身。 凡夫の身。
6. 【五相(ごそう)】密教で、本尊の大日如来と同一となるために行者が修める五つの観行。


不明な箇所も多々ありますが、おおよそ薦僧の持物全てに仏教的意味合いが込められていることが説明されています。


保坂裕興氏の解説によると、

古代律令制下に軍事拠点として設けられた、長門の赤間ヶ関(下関)・京都の入口にあたる逢坂の関・白河二ヶ所の関の三関が役割を失ったように、自分達にも役割が無くなったとし、『コモト云フソノ水上』=集団に、このような「ヲチ人」=浪人が集るとされるのである。

16世紀のコモゾウは普化禅師の語録を用いた頌(しょう/じゅ)を、共通の心性を語る際に利用し、属性としつつあった。しかしここでは、冒頭と末尾で普化禅師への帰依が表明され、かつ仏教的解釈が主たる要素を覆っているのであり、コモゾウの本性に変化したと見ることができる。


最後の質問「薦僧の指たる刀は何か」からもわかるように、普化禅師の信奉者であるにもかかわらず、刀を所持しているのは、保坂氏の言う「浪人」の集団であることがここから読み取れます。

18世紀末頃、普化寺や虚無僧たちの所業の実態について書かれた文書 中井積善著『草茅危言』(1789年)にも、すでに虚無僧は「悪党無頼ノ者」なんて書かれています。

そして、薦僧の門派が書かれています。

暮露薦僧本則 門派


【五畿内(ご‐きない)】大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国。


何だか面白い名前の門派がありますね笑


四国を除く全国に門派があり、特に十六のうち六門派が関東に集中している、括弧のある五門派は、近世後期まで同じは派名で存続している。これを以て普化宗の成立としておきたい。(保坂裕興)

おおよそこの頃からが普化宗のはじまりということです。



筑紫の「イヌヤロウ門派」のイヌは接頭語で「よくは似ているが、実は違っているもの」や「役にたたないもの」。「ヤロウ」は野郎で、前髪を剃り落として一人前になった男子をあらわす。すなわち犬野郎は、偽野郎、または役に立たない野郎を意味する。
美濃の「若衆門派」は元服の後にも前髪を切らずに若衆髷のままでいたり、振袖を着たりしている男子を指し、中には男色を売るものもあり、かぶき風俗の一端を担っていた。
奥州の「タンシヤクヨロコヒ門派」について。普通の尺八は一尺八寸の長さをもつが「タンシャク」は一尺から一尺二寸程度の短尺の尺八のことであり、音色的には横笛にちかく、遠くまで甲高く鳴り響き、こきみよく旋律を奏でることができる特性をもつ。若衆・野郎などが集って輪舞する際には、伴奏楽器として三味線と横笛が使われることもあったが、尺八楽器は全盛であった十六世紀後半から十七世紀前半頃には、短尺の尺八がその特性ゆえに使われることが少なくなかった。短尺の尺八で喜ぶというのは、輪舞の際に、囃子方として大勢で踊る喜びを共有したからであると推測され、「タンシヤクヨロコヒ門派」もまた、かぶきものの風俗と無縁ではないのである。このように少なくとも三門派は、かぶきものの風俗を担った若衆・野郎に類する人々によって構成されていたが、十七世紀のうちには一切の史料から姿を消している。逆に言うならば、この点が成立期普化宗の大きな特徴なのである。(保坂裕興)


『遊楽図屏風(相応寺屏風)』

↑こちらの屏風(左から三番目)には、大勢の人が円舞している真ん中で、三味線弾きや太鼓を叩く人の中に混ざり、二人の尺八吹きがいます。

踊ってる人たち、実に楽しそう。一節切尺八は囃子方の篠笛の役割を担っていたようです。

普化宗成立期の頃、1600年代にはもう本州全国に薦僧集団がいたんですね。


あと、

最後に「暮露」と記名があります。

暮露と薦僧は別物ということが現代では定説なっていますが、これに関して保坂氏が解説されています↓

この作者が最後に「暮露」を名乗っていることに関し、ぼろぼろは、古代仏教の傘下にありながらも既成教団を離れ、坐禅などの〈行〉をする僧侶であり、尺八を専業とする仏教系芸能者の薦僧とは全く異なる人々であった。虚無僧は、薦僧との連続性を持ちながらも、普化禅師への帰依を遂げることによって本格的な仏教者として立ち現れたのであり、やはり本質的に性格を異にする人々であることが明らかである。つまり、由良興国寺との関係をもった「暮露」が偶然に虚無僧に転身するなどして、この文書を著した解する道もあるが、林羅山が「ぼろぼろの流也と云伝たり」と記録したことや、実際に十七世紀後半の古辞書でぼろぼろと虚無僧が同義にされたことを考慮するならば、そこには両者を結びつける作意が存在したと考える必要があろう。
 すなわち、虚無僧と暮露の差異が問題を解く鍵となる。当該期のコモゾウは、普化禅師に帰依する仏教者=虚無僧になったとはいえ、仏教僧侶としての歴史も信頼性も持ち合わせず「乞う」者である限りにおいて薦僧と同様、定住社会による排除へ対処することが必要であった。これに比して、ぼろぼろは古代仏教に連なり、大乗諸経に通じながら〈行〉をする者であり、歴史と信頼性を持っていたといえよう。つまり、この文書の作者は、当該期の虚無僧が仏教者であることを説得的にするために「暮露」を名乗り、ぼろぼろに連なる者であることを含意したのであり、羅山や季吟の記録にもこの作為につながる言説をふまえていたと推定されるのである。


つまりこの頃は、薦僧より暮露の方が仏教につながりが深く信頼性があったということなんですね。これも意外な感じがしますが、暮露は始めから仏教信者であるのに対し、薦僧は尺八を吹くことを職能としていたが徐々に宗教味を帯び、普化禅師に帰依するようになった。ということなんですね。


その後虚無僧は、江戸時代にはいると盛んに活動するようになるのですが、それに伴って、その弊害も次第に無視できないものとなっていたとのこと。それには虚無僧の特権的優遇措置を取り決めた家康お墨付きの「慶長掟書」というものがあります。「虚鐸伝記」と並び虚実入り混じっているとのこと🧐

次回はこの「慶長掟書」を読み解いて行きたいと思います♪




古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇