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かぶき者と古無僧

関ヶ原の戦いや、徳川家康による江戸幕府開府、大坂冬の陣・夏の陣を経て大坂城の落城(豊臣氏滅亡)などがあり、時代が大きく動いたという慶長年間に書かれた、『慶長見聞集』に「古無僧」が登場します。

大鳥一兵衛組の事 古無僧
三浦浄心著 
『慶長見聞集』(1614年) 
校注 中丸和伯


泉武夫著『竹を吹く人々』の解説によると…


「廿五までいき過ぎたりや」と銘打った三尺八寸の長刀を帯び、命知らずのあぶれ者の知音(友人)を江戸中に千人二千人もかかえていたという大かぶきもの、大鳥一兵衛の話(巻の六「大鳥一兵衛組のこと」)
 大鳥が武蔵国八王子の酒屋ににいたとき「古無僧」一人が尺八を吹いて門付を行うのに出会った、わけあり風であったので、呼び入れて一緒に酒を飲み一曲吹いてもらった。大鳥も若い頃に尺八を手がけたことがあったのだが、あまりの拙さに「それくらいならおれは尻でもふける」と挑発したところ、次のような言葉が返ってきた。「わたしは嘗て高位にあったものだがゆえあって世捨人となり、縁をたよって仏道に入り、普化上人の跡を修行しているのである」と。
その尺八吹きの古無僧は精神的裏付けとして禅の普化和尚を名指しし「空門(万物の本体が空という仏門)に思いをすまし、内に所得なく外に所求なく」「出離解脱の道に入、修行をはげます」などと禅宗風の教義を開陳。
さてこの古無僧、大鳥一兵衛の挑発に乗り、ほんとうに尻で尺八が吹けるかどうか賭けをした。衆人環視のもと、大鳥は古無僧の尺八をとってさかさまに取り直し、尻で吹いたところ、皆は大鳥のほうが勝っているとはやし立てたと語られている。
これらは獄中で役人の退屈をまぎらわすための<問わず語り>なので虚構と真実の区別つかない。

泉武夫著『竹を吹く人々』




また保坂裕興著の「十七世紀における虚無僧の生成」によると…

<17世紀はじめの虚無僧 普化禅師への帰依>
1614年の奥書がある三浦浄心著『慶長見聞集』の「大鳥一兵衛組の事」には、15・6世紀の薦僧と違う特徴を認める事ができる。
1)17世紀の初冬において彼らは無条件に、ゆえある人、または落ち人=浪人であると観念されていたことが知られる。史料中でも大鳥一兵衛に尺八の一手をばかにされ、自らの境遇を語り始めたところで、かつては四姓、つまり源平藤橘(注1)の上首で仕官をしていたらしいことが述べられており、実際に浪人であったらしい。
2)「古無僧」が自らをいかに説明しているか、である。古無僧は「世捨人」になったが、武士であった先業を顧みて他業に転身せず、仏道の縁にとりついたという。その取り付いた先といえば、既成の仏教諸宗派ではなく、普化上人の跡を継ぐ宗門であり、尺八を吹いて門付けの修行をするものであったのである。
この「古無僧」も表記が「虚無僧」に定着するまでのいくつかの表記の一つであり、あそらくはコモゾウと音読されたと考えられる。
ここに記されたコモゾウは、薦僧と同様に尺八を吹いて門付けしていたが、普化禅師に帰依し、仏道の修行をするという性質を備え持っていたのである。

(注1)源平藤橘(げんぺいとうきつ)
日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた言い方である






最後に、かぶき者について、こちらのブログでとてもわかりやすい説明がありましたので転載します。



町奴 ( かぶき者 )

かぶき者(かぶきもの。傾奇者、歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。

かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。


かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。寛永期頃から江戸に現れる旗本奴、町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られる。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。


歌舞伎とはかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りが原形だったんですね!


その大鳥一兵衛は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせたといいます。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいたそうな。

この『慶長見聞集』に登場する、かぶき者と古無僧(虚無僧)は、戦国の世でもしかしたら同じ人生を歩んでいたかもしれない似た者同士。

かぶき者で派手に生きるか、虚無僧で仏道に入るか、両極端のようで生き様の儚さは同じに感じます。

「大鳥逸平 片岡十蔵」「腕ノ喜三郎 市川小団次」 waseda
落合 芳幾 画 1863年
(早稲田演劇博物館蔵)
「大鳥逸平 片岡十蔵」「腕ノ喜三郎 市川小団次」

大鳥逸平が描かれた歌舞伎の浮世絵。


右上の刀を振り上げているのが大鳥逸平。左の腕ノ喜三郎は侠客です。かぶき者は武士に縁のある者だったようなので、侠客とは着物が違います。江戸時代になると、侠客も尺八を腰に差している浮世絵は沢山あります。


この頃はいかに尺八は人気があったか!

羨ましい!



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