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虚無僧友鵞が捕縛された日本橋横山町にやってきた。

天保五年(1834年)四月二十一日、ここ横山町二丁目で、虚無僧友鵞ゆうがこと、神谷転かみやうたたは数人の捕り手にぐるりと囲まれた。


要は、指名手配中の虚無僧がお巡りさんに囲まれたのだ。

『出石奇聞誉神谷』 嵯峨野増太郎 編 1885年刊
国立国会図書館蔵


「奉行の組子等、友鵞を路頭に捕ふ」
とあります。



捕り手に囲まれた友鵞は叫びます。

驚いて、
「拙者は一月寺の役僧でござる。町奉行所がお召し捕りになるとは筋ちがいでござろう」
と大声で叫んだ。けれども捕り手はいっこうに耳をかさず、辻々からも数人が駆けつけて人数を増し、打ちかかる一方であった。尺八を振りかざし捕り手の棒をかわしながら、友鵞は必死に叫んだ。
「ご用の向きがござれば、一月寺番所へ同道の承ろう。理不尽でござろうぞ」
しかし多勢にかなわず、ついに取りおさえられ、縄をかけられてしまった。そして南町奉行筒井伊賀守の番所へ連行された。
「その方の主家仙石家の頼みによって召し捕った故、仙石家へ引き渡す。そのように心得よ」
と告げられた。ついで奉行所内の牢へ収容された。

宿南保著『仙石騒動』より



まさに時代劇のワンシーンのようですが、
今回は虚無僧となった神谷転の足跡を辿っていきたいと思います。





時は遡ること文政の時代に始まる、但馬の出石藩で起こるお家騒動が発端。

出石藩の藩士であった神谷転かみやうたたは、天保5年(1834年)処罰を免れる為に行方をくらまし、江戸麻布六軒町の有名な柔術家渋川仲五郎の紹介で一月寺に入り虚無僧に身をやつし、名前を友鵞とする。


有名だという柔術家渋川仲五郎の詳細は不明です。



天保6年(1835年)には、上総国かずさのくに三黒みくろ村(現千葉県袖ケ浦市三黒)松見寺看守とされた。

一年も経っていないのに、虚無僧寺の看守を任せられてしまうという虚無僧の人手不足ぶりだったようです。もしくは、尺八が相当に上手く吹けたのか?! 尺八研究家の神田可遊氏の解説によると、友鵞の尺八は黒沢琴古作だったそうな!



一方、出石藩の仙石道之助より、町奉行の筒井政憲まさのりにかねてよりうたたの召し捕らえの依頼があり、江戸南町奉行所は転が虚無僧になっていることをつきとめていた。(聞き取り調査でしょうか)

友鵞が「宗義上の用事」で、松見寺から京都の明暗寺への出張の途中、浅草広小路の番所へ寄り、書状を飛脚屋佐右衛門方へ預けにこの辺りに立ち寄ったところを襲ったのだ。




「宗義上の用事」とは何か。
この当時、宗用で考えられるのは、一月寺の住職が約50年ぶりに決まったことに関することかと思われるとのこと。天保6年2月15日に霄海蛟龍が住職となる。そのことを報告しに行くのが一月寺への用事であったのではないかということです。神谷転がわざわざ行く必要があったのか、手紙で十分ではなかったのではという疑問点も神田氏は指摘していますが、個人的な想像としては、転は自分の身辺の危険を察知して、わざわざ遠出を願い出たのではないか…と思ったり。



もう一つ、さらに疑問点としては、虚無僧寺は金先派、括惣派、寄竹派と別れていたのですが「派」の異なる虚無僧寺との交流はあったのか。
一月寺・鈴法寺は、虚無僧寺の触頭(総本山)として、全国の虚無僧寺に通知する義務があるので書状による通達などはあったようです。顔をつきあわせるのは同じ派の会合だったとのこと。



やはり、わざわざ派の違う京都の一月寺まで行くのはよっぽどの理由があったとしか考えられません。




当時の横山町辺りの古地図はこちら。

『江戸城下変遷絵図集 六』 
御府内沿革圖書


赤線の部分が横山町二丁目。
赤丸は見出し画像の写真を撮った場所。


もう少し広範囲のこの辺りの地図。
上の地図とは上下逆です。

『江戸「古地図」探訪』監修 菅野俊輔
左下に東京駅がある。




こちらは馬喰町。
横山町の二本隣で、江戸名所図会に描かれている。

『江戸名所図会』
国立国会図書館蔵


黄色の矢印の方向からみた景色です。
遠くに浅草寺の屋根が見えます。



同じ方向から撮った写真。

ビルに囲まれ何も見えません…。



そして現在の横山町。
横山町の通りは繊維の問屋街になっている。

横山町二丁目辺り。
逆から見る。



ふーむ。

「虚無僧友鵞が捕まった場所」


なんて立て札たてておいたりしたら、全国の虚無僧ファンが集まってくるかも?! 



無いか?笑



友鵞が看主となった松見寺とは



『一音成仏』三十号に記載された、史蹟調査委員 奥山市松著
房総三ヶ国に於ける普化(虚無僧)宗寺あと
によると、以下が昭和十年の現状です。
こちらを参考にしながら、現状も付け加えていきたいと思います。



三畔みくろ山松見寺

所在地 千葉県君津郡根形村大字三黒定西大縄417
所有者 官有
現状 三黒の人々は松見寺跡と称し田圃たはたの間に在り松、くすのき、椎等の大木茂りて遠見して既に由緒の地なるべきを想わしむ。反別一段六畝余。もとの入口の左に墓地あり虚無僧と関係無し。入口の右椎と樟との間に大小の墓碑三基あり何れも虚無僧の墓なり。入口より一直線に進めば円墳あり日本武尊の紀橘媛たちばなひめの塚と称せらる。林の中央に松見寺在りし由絵にて其の一隅に高五尺程の記念碑あり。和文にて数百を刻せり。撰文は船橋清山寺看主不着愛璿あいぜん書は松見寺看主友鵞即ち神谷転なり。橘媛の神徳を奉謝して建立せしものなり。三黒の旧家吉田氏の秘蔵に友鵞自筆の短冊、及幅物、「仙石騒動神谷転自筆全」筆の外に虚無僧の短冊、並びに友鵞愛用の茶湯茶碗等あり。



三黒山松見寺

松見寺の創立また詳ならず、承応年間は安迦海心 延宝天和の三広露月 元禄の頃本空一無 享保きょうほの頃戒雲盛光 文政の頃端然政甫居住せし事は境内に存する墓碑によりて知られ共其の実績は得て知るべからず。




現在、松見寺跡地の虚無僧墓碑は有形文化財指定(袖ヶ浦市教育委員会)を受けており、その説明板が立っております。

三基の墓碑にそれぞれの年代の松見寺看主、安迦海心、三広露月、本空一無、戒雲盛光、端然政甫の名前が彫られています。


こちらに墓碑の詳細と写真が載っています↓

https://www.city.sodegaura.lg.jp/uploaded/attachment/6482.pdf



普化禅宗触頭金先派惣本山一月寺末寺・三畔山松見寺
(上総国望陀郡谷中三畔村)
所在地 千葉県君津郡袖ヶ浦町三黒定西大繩417番地 吾妻神社境内
菩提寺 曹洞宗 長徳寺
袖ヶ浦市指定文化財 代二十七号 有形文化財
松見寺神谷転石碑
所在地 千葉県君津郡袖ヶ浦町三黒定西大繩417番地 吾妻神社境内



伝説


伝説には百姓等が松見寺門前を馬に乗りたる儘通過すれば虚無僧に怒号せられしのことなり。又途中にて虚無僧に遭い下馬せざればその無礼を咎められしと。


武士の性分が抜けない虚無僧…汗




 三黒の旧家、吉田氏所蔵虚無僧書の短冊数枚の中に友鵞の分を示さむ。

「入院の折しも 閑かさや三畔寿める春の月」 
松見寺の入院の感想にて。

「あるじの意を 有難き御代や草にも照る月夜」 
仙石騒動終結本望を遂げし折りの感謝か。

「おろかさの限りとおもふおのが月夜を 世に知られたる名さえ恥ずかし」
騒動によりて転の名が世に知れ渡りたる述懐。



 
 尚同家に秘蔵せらるる『仙石騒動神谷転自筆 全』なる冊子は紙数三十数葉ありて奥書に左(下)の文あり、

此一冊は於当村役頭吉田氏宅、応需に早卒の間に写しおわる、略説乱毫は後人察賢し給へかしと友鵞爾云。

急いで写したので、乱筆乱文とのこと(?)



仙石家の忠臣神谷転友鵞に関する史蹟



三黒松見寺阯に愛璿の撰文を友鵞謹書せる碑あり。

夫神おがみは風雨を領し禍福をつかさどる。正直を以て躰とし、霊験をもて用とす。されば是を祈るものは己が心を正しく至善至直(いたって善良で正直)の性を認得、これを祭るに礼を以てし。いのるに理を以てし。事まつるに信を以てする時、神と我一に和して感応比にあり。此橘の神社は往昔おうせき彼海中の難に逢て、夫神のため身を海底に投してそう是を救ふ。これ則天感し地応し毒龍飛簾(飛廉=中国の空想上の動物)の類語の邪険も災することあたはず。尊遥そんように東の方を顧みて吾妻恋しとのたまいひしより、今も、あ津満の名を呼ぶ、人は邪強くよこしま探して返て縲絏るいせつの難にかかる時に此神に祈誓す。予も志を等して倶に祷る。神忠誠を憐て其災厄を解除す。後神廟にまふてて恵沢を謝すあまり。此神の来由を上石し、なお霊験広明なる事を記さんとす。しかるに吾妻の神の事実は、具に国史に載せてもらすことなく、草刈る童、漁する蜑(海人)も、よく知るよしなれば、わけて記さす。唯、我神徳を謝し後人の善を勧め悪を懲さんと、心の行所、詞花、言葉、露を玉とあさむかず。誠実をもとゝして記す。
 現清山不着愛璿欽白  松見看主 友鵞謹書 


忠臣空しく神谷転友鵞町奉行所の手に捕らえられ仙石家に引渡されむとせし際、友鵞も、一月寺を代表する不着愛璿も、互に橘媛之霊に祷り。神助を受けて災厄解除し、構無の身となりて後共に神廟に詣でて恵沢を謝し、神徳を永久に伝えむとて之を建立せし事を知るべし。
 而して現清山とは、現在船橋宿神明山看主の意なれば、一月寺出没として活躍せし愛璿は清山寺看主にて一月寺住職代理を勤めつつありしなり。而して友鵞は松見寺看主たりしことは勿論なり。


 さて此に僧の関係は其後如何になりしか、船橋町五日市なる神明山清山寺阯に遺墨墳の文其大略を記せり 曰く

廓嶺三十一世無着愛璿和尚元当山寺務而有勤功也一宗人所知也有故而転派活総雖有再帰派之約時不至而終天保十二年辛丑四月十日僊化今瘞遺墨於此建塔以令遂其約志矣
  保寅四月   法弟 當山看司 友鵞 拝詞


松見寺跡の碑も、清山寺跡の碑も、友鵞は愛璿を褒めちぎってます。石に刻んで残そうというくらいですから相当尊敬していたのでしょうか。船橋の清山寺にあった「遺墨墳」は、その後馬橋の万満寺に移されています。


虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第四十一号の小菅大徹氏の『駿河無量寺の記録』によると、愛璿は『仙石騒動」の時は船橋の清山寺の看主であり、一月寺を代表して願書を提出したとのこと。無量寺の古文書には、尺八指南免許状に愛璿の印があり、騒動の起こる前年の天保五年(1834)九月まで、愛璿は無量寺の看主であったことが判明。この当時「無着愛璿」ではなく「不著愛璿」という竹号を名乗っていたそうな。その後愛璿は青梅の鈴法寺の三十一代の看主となり、清山寺は友鵞がその跡を継いだ。


もし愛璿が清山寺に来ていなかったら、歴史は変わっていたかもしれませんね〜。



愛璿は蛮社の獄の時、蘭学者高野長英を一時救ったという話もあり、その事を勝海舟は自身の著書「氷川清話」で語っています。

蛮社の獄とは、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件。 高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。



んー、愛璿、一体何者なのでしょう笑


後日調査に行きました↓



友鵞を横山町から追ってきましたが、ひとまずここで終了。


さらに、
神谷転のお墓が都内にあるとのこと!



次回は、その探索です♪

仙石騒動つづきますね〜。笑



参考文献
宿南保 『仙石騒動』
奥山市松 『房総三ヶ国に於ケル普化(虚無僧)宗寺阯』
森田洋兵 『新虚無僧雑記』
小菅大徹 『駿河無量寺の記録』虚無僧研究会機関誌一音成仏

ご協力
尺八研究家 神田可遊氏


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