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千葉の虚無僧寺『探墓行』☆三畔山松見寺

虚無僧になった出石藩士 神谷転ゆかりの松見寺跡に行く。



『仙石騒動』を調べて其の六までシリーズが続きましたが、ようやく神谷転が虚無僧になり、看主となった松見寺にやってしました。




『仙石騒動』とはどういう騒動であったかはこちらから↓



三畔山松見寺

所在地
袖ケ浦市三黒417 吾妻神社 

本寺 
金先派一月寺

敷地
一反六畝余



まずは木更津駅から。 

久留里線



終点まで行ってみたい気持ちをぐっとこらえて横田駅で下車。



この久留里線は、もとの計画は房総半島を横断して、東京湾岸の木更津と太平洋岸の夷隅いすみ郡大原町(現在のいすみ市)を結ぶ「木原線」であったようですが、トンネルや鉄橋の多い難工事が予想されるうえ、長期化した戦争などの悪条件が重なったため、大原駅と上総中野駅間26.9キロの路線に「木原線」の名を残して今日に至りました。

高崎繁雄著『西上総地名散歩』
1987年


地図上で見てみると、久留里線終点の上総亀山駅といすみ鉄道の上総中野駅がつながる予定だったのでしょうか。


 さて、木更津駅を発車した久留里線の電車が、東清川駅を過ぎて横田駅の手前で小櫃川鉄橋にさしかかったとき、左前方を注意して見ますと、田圃の中に取り残されたようにな小さな森が見えます。
 この森の西南の隅にある丸い塚山は弟橘媛おとたちばなひめ御骸みくろを埋葬した臂松古墳だといわれ、森の北側に弟橘媛を祀る吾妻神社が鎮座しております。

高崎繁雄著『西上総地名散歩』
1987年


その森が一体どこか、電車の中から目をこらしておりましたが、確信持てず...。



線路を渡り北へ向かう。
見渡す限り田圃です。

3月の風景。



おお、あれに見えるは吾妻神社かな。

 


途中の祠や石仏。



着きました。



吾妻神社



上総國望陀三黒村吾妻神社は、同村西南字西大縄と称する所に鎮座す。

一、本社境内に一丈(10尺)余りの塚あり、之即ち口碑こうひに相伝ふる御陵跡なり。
一、今南方に臂松古墳と称する跡あり、是即口碑相伝う姫の御遺物を納めたる所なり。
弘化五年二月、松見寺看主有照なる者は臂松の枯朽して、事蹟の消滅せんことをうれたき自ら臂松古墳と四大字を書して碑を建つ、但し此松下周囲往古より玉垣を持って囲み有りといえども寛文年度の火災に依り、古松次第に枯れ当時に至りては、只松根並に破毀の石段僅かに存するのみ。今は消滅して存するものなし。
一、同西方に鏡ヶ池と称する小池あり。
一、社地に接し字塚田あり(口碑に御陵を作りし際、土をとりし所なりと)
一、本社地名元吾妻輿なりしが地租改正の際、定西大縄と改む。
一、本社に接し、政所、休所、姫こぞへ等の地名あり。
一、本社東方七八丁隔て御鉾殿と唱ふる社あり、御葬事の際、尊御鉾を立てし所なりと言へり、二社東西の相対せるを以て村民、之を東宮西宮と称す。
一、祭田を言ふ名称あり、地租改正の際宮の前と改む。(横田 千葉菊次氏所蔵所)

【口碑(こうひ)】言い伝え、伝説。

『平川町史』



この吾妻神社には、


ヤマトタケルの后、弟橘媛おとたちばなひめが祀られている。



因にヤマトタケルは、『日本書紀』では、日本武尊やまとたけるのみこと、『古事記』では主に倭建命やまとたけるのみことと表記されるとのこと。

そのヤマトタケルが東征の際に走水はしりみずの海(浦賀水道)を渡ろうとしたとき、海の神が祟って舟が進まなくなった。后が尊の身代わりになって海に身を投じたところ、舟は進むことができたという(『古事記』)。

その後、その遺骸が黒戸の浜に漂着し、遺骸を長生郡本納(千葉県東部・現在の千葉県茂原市本納町)の地に送ろうとしたが果たせず、首飾りを取ってこれを送り、遺骸をこの地に埋葬し、松を植えて墓標としたと伝えられている。
その松は臂(ひじ)のように曲がっていて、臂松と云う。寛文年間(1661-73)に枯れたとのこと。

この地は、弟橘媛の遺骸を収めるのに、御骸みくろと称され、それが三畔みくろになり、三黒みくろに転じ今に至るという。



『前賢故実』 巻第1
弟橘媛
国立国会図書館所蔵


穂積氏。忍山宿祢の娘。日本武尊が寵愛する姫。日本武尊が東夷を征伐するときに、媛は従軍していた。ある日、相模より海に船を出し東へ向かっていたが、海中で暴風が起こり、船は転覆しそうになった。そのとき、弟橘媛が「これは海神のしわざだ。私が皇子の代わりとして海に入る」と言うと、自ら海に身を投げた。すると暴風は止み、三軍の船は海を渡ることができた。皇子は深く悲しみ、歎いた。東夷を平定した後、碓日というところを越えるとき、弟橘媛を忘れられない皇子は、東を向かって「吾嬬己矣」と嘆いた。因んで、東の諸州を「吾嬬」というようになった。

『前賢故実』
GadaiWikiより



臂松古墳


冨士太神と小御岳神社
その奥に丸山塚(古墳跡)


その他の祠




松見寺説明板

説明板

この虚無僧は松戸市立博物館の虚無僧像ですね。


袖ケ浦市指定文化財 第二十七号 有形文化財

松見寺しょうけんじ神谷転かみやうたた石碑


所在地 袖ケ浦市三黒字定西大縄四一七
管理者 御鉾神社
指定年月日 平成十四年二月六日

神谷転は、江戸時代後期の天保元年(1830)から天保六年(1835年)にかけて起こった仙石騒動(出石藩・兵庫出石市の御家騒動)において、藩の改革派に追われる身となり、脱藩して後に友鵞ゆうがと改名し、松戸小金(松戸市)の一月寺に入寺して虚無僧をなった。その後天保六年(1835年)に、この場所にあった松見寺の看主(禅宗で住職に代わって寺務を監督する役)となった。
 石碑は、仙石騒動が収まった天保七年(1836年)に友鵞(神谷転)が建立したものである。内容は、吾妻神社の社頭(社殿の前)に精忠の志をあらわしているもので、歴史的事件に関わった人物と袖ケ浦市の関係を示すものをして貴重な歴史資料である。

平成二十二年三月

袖ケ浦市教育委員会



神谷転石碑


袖ケ浦市指定、有形文化財
https://www.city.sodegaura.lg.jp/uploaded/attachment/30408.pdf 

 

夫神おがみは風雨を領し禍福をつかさどる。正直を以て躰とし、霊験をもて用とす。されば是を祈るものは己が心を正しく至善至直(1)の性を認得、これを祭るに礼を以てし。いのるに理を以てし。事まつるに信を以てする時、神と我一に和して感応比にあり。此橘の神社は往昔おうせき彼海中の難に逢て、夫神のため身を海底に投してそう是を救ふ。これ則天感し地応し毒龍飛簾(2)の類語の邪険も災することあたはず。尊遥そんように東の方を顧みて吾妻恋しとのたまいひしより、今も、あ津満の名を呼ぶ、人は邪強くよこしま探して返て縲絏るいせつ(3)の難にかかる時に此神に祈誓す。予も志を等して倶に祷る。神忠誠をあわれて其災厄を解除す。後神廟にまふてて恵沢を謝すあまり。此神の来由を上石し、なお霊験広明なる事を記さんとす。しかるに吾妻の神の事実は、具に国史に載せてもらすことなく、草刈る童、漁する蜑(4)も、よく知るよしなれば、わけて記さす。唯、我神徳を謝し後人の善を勧め悪を懲さんと、心の行所、詞花、言葉、露を玉とあさむかず。誠実をもとゝして記す。

天保七丙申年初夏

現清山不着愛璿欽白  
松見看主 友鵞謹書


  1. 【至善至直(しぜんしちょく)】いたって善良で正直

  2. 【飛廉】(中国の空想上の動物)

  3. 【縲絏】罪人として捕らわれること

  4. 【蜑】海人(あま)



こちらの石碑は、友鵞が仙石騒動の際、聖廟に祈願し、遂に安泰を得たので、丸山塚に感謝して彫ったものとされています。



碑の裏面には仙石の臣、渡邉僲駕の句が彫られている。

前も後ろも逆臣のために
秀るあり死せるあり偏
に泰平の正華ならむか
黛のその香は
代々に残るかも
但蔭白銀峯士頭

渡邉僲駕



虚無僧寺と神社の関係について、神田可遊著「虚無僧寺と神社」(『尺八評論第3号』)によると、

虚無僧寺が形成されつつあった江戸初期、東日本の多くの虚無僧寺は風呂寺であったのだが、神社に付随する神宮寺として成立し、虚無僧が社僧として神事・祭礼に関与した寺があった。虚無僧がなぜ社僧になったのか、また神宮寺として発足した虚無僧寺は他の虚無僧集団とは違った経歴・性格をもつものであったかは実はよく分かっていない。全国を回国する集団だった薦僧が、戦国期を通じて今までとは異質な人間を取り込みながら各地に定着する際に神宮寺という形態が一つの選択肢としてあったのであろう。

松見寺は神社の旧記を蔵していたが、寛文年間(1661〜73)に火事で焼失したと伝えられている。恐らく神宮寺であったのだろう。仙石騒動の神谷転(友鵞)が松見寺看主となっていたのはおなじみ。なお姫の遺物を納めた臂松古墳があり、弘化四年(1848年)松見寺看主有照が碑を建てていることも神宮寺の証左ではないか。

神田可遊著「虚無僧寺と神社」
『尺八評論第3号』



神谷転が虚無僧になったのは1834年。

1834年4月 江戸麻布六軒町の有名な柔術家渋川仲五郎の紹介で一月寺に入り名前を友鵞とする。
1835年3月 神谷転こと虚無僧友鵞は、上総国かずさのくに千葉県三黒村(袖ケ浦市)松見寺看主とされた。


友鵞について詳しくはこちら↓




虚無僧の墓へ


椎の大木の元に墓碑。




文政四辛巳年(1821)
圓寂松見前住端然政甫和尚品位
三月二十七日


享保十七(1732)
戒雲盛光首座品位
五月十三日


安迦海心和尚
承四乙未四月十五日 (1655)
三廣霜月和尚
天和元辛酉十二月朔日 (1681)
本空一無和尚
元禄四未天九月九日 (1691)




歴代
海心安迦 承応年間(1652-1655)
露月三応 天和年間(1681-1684)
本空一無 元禄年間(1688-1704)
盛光戒光 享保年間(1716-1736)
端然政甫 文政年間(1818-1830)
友鵞   天保十四年(1843)十月廿六日 

高橋空山著『普化宗史』



友鵞本人のお墓は中目黒の天台宗のお寺、三等山永隆寺にあります。
東京三田大乗寺から、明治35年に寺号を改め中目黒に移った。


友鵞のお墓についてはこちら↓



こちらで「転菅垣」を献笛。



 
ここだけ時間が止まっているようです。
車も殆ど通らない。

私はこのまま、ここにある草や石にでもなりたいと強く思ったのでした…。





しかしながら、そんな夢想をしていても、時間は経つし腹は減る。

仕方ないので名残惜しみながら、ここを経ちます。


西側からもポツンと吾妻神社。



次に向かうは菩提寺の長徳寺。

昔はこの辺りを一括りで上総国かずさのくにでしたが、今は木更津市となっています。


途中、コブシが満開。

癒やされます



菩提寺であった長徳寺

山門
かなり簡素。



山門脇の道標。

1703年とあります。

神谷転、この道標絶対見たよな。
感慨深い…。



お参りも済んだので一つ先の東清川駅に向かいます。



 

途中の祠。

  

道標


都会では、道路になったり宅地になったりすると、こうした道標や祠、お地蔵さんは移動させられてしまっていますが、この辺りは昔のままのような気がします。




何やら凄い馬頭観音さまがいると地図に載っていたので、見に行きます。




おお、馬に乗ってる!


ここでは地元の人達が車で集まって何やら話し合いしてました。

いいですね、
「明日、10時に馬頭観音ね。」
って待ち合わせるの。
羨ましい。




お昼にします。

「大衆食堂とみ」


メニュー豊富♡


いかにも、店主「とみさん」といった風の女性が注文した焼きうどんを持ってきてくれました。




駅の近くにも道標兼お地蔵さん。  


絶対移動しないのはいいのですが、もうちょっとなんとか…。



東清川駅。

無人駅です。




こちらおまけの写真。

神谷転出身、兵庫県の出石町の出石酒造のお酒。
神田可遊氏提供。


出石焼のぐい呑み。
神田可遊氏提供


珍しい白磁なんですね。
出石白磁ともいうそうです。1800年はじめ江戸時代中期に、出石藩において、大量の白磁の鉱脈が発見され、出石焼磁器が1801年(享和元年)の藩窯開設以降、本格的に生産されるようになったそうです。



あとは、出石蕎麦を食べに行ったらようやく完結です。



参考文献
平川町史編集委員会 編『平川町史』
神田可遊 著『尺八評論第3号』
高橋空山 著『普化宗史』
高崎繁雄 著『西上総地名散歩』

史料提供 尺八研究家・神田可遊氏

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