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岐阜の名士逝く☆藤川流光師を偲んで

竹内史光師門下の藤川流光師が、今年2023年5月23日に逝去された。

享年80歳。


(見出し画像は『二世川瀬順輔 追善演奏会』の竹内史光師門下の集合写真。藤川氏所蔵)


一年ほど前に癌が見つかり、あっという間であった。


最後に話したのが亡くなる3週間前。


「もう会えんよ。」


と、入院先から電話を下さった。


緩和ケア病棟に入り面会は家族のみとなっているとのこと。


なんと…、もう二度と会えない!


絶句だった。



私は昨年急逝し会えなかった友人がいた後悔から、癌の闘病中であった藤川氏には、電話をしたり、手紙を書いたり連絡をまめにするようにしていた。

4月に会う約束もまた別の症状で実現出来ず、手紙に「またお会いできるのを楽しみに…」なんて書いたからだろう。

電話の声はしっかりしていて、もう病院から出ることが出来ないなんて信じられなかった。 


藤川氏の話に、私は言葉のかけようもなく、名残惜しさ飽和状態で、ただ「そんな……(絶句)」というしか無かった。

最後には馬鹿みたいに自分から「がんばります」などと言っていた。



藤川流光氏は、布袋軒鈴慕を吹かせたら日本一と言える演奏家だった。

ただ、本人は人前で演奏するのは嫌いと言って、自らあちこち出向いて演奏はしていなかった。

藤川氏の演奏を聴きたくば、竹内史光師門下の集まる、半年に一回の古典本曲愛好会に行かねばならなかった。


最後にお会いしたのはその半年前の12月。


藤川氏の家は岐阜県関市にある。


刃物で有名な町だ。

あと関市の鰻屋も何故か有名である。


車を持たない私は、岐阜駅から片道40分のバスで行く。

最初はバスを間違えていたらどうしようと、不安になるくらい遠く感じた。



「一度勉強しに、私の家に来なさい。」


半年に一度、岐阜の護国之寺で開かれる竹内史光師門下の集まる古典本曲愛好会で、こう声をかけられた。  



藤川氏は、竹内史光師の門下の中でも上層部の幹部というイメージ。(あくまでもイメージです)

怖くて話かけたこともなく遠い存在だった。


かといって威張っている風も無く、始終穏やかそうな表情をしている人であったが、その穏やかさの裏側に頑として動かない厳しさ、そして鋭さというものが伝わってくるような人だった。


藤川氏は私のことを、頑張ってるわりには…、と不憫に思ってくれたようだ。



初めて藤川師の家を訪れたことは、今でも忘れない。


多分人生で一番ど緊張した日だと思う。


仏間に、小さな座卓があり、対面で正座。


最初に音出しをして、一緒に調子を吹いた。


そして、


「ちょっと吹いてみさない」

と言われ、


ツレーーーー


と吹くと、


「腹式呼吸。」


と一言だけ言われ、


「はい、今日はこれで終わり。」


と終わってしまった。


あとは隣の部屋に場所を移し、雑談だった。

私はずっと緊張して、正座をしていたと思う。

その時は「今時の若者は」的なお説教に近かったような記憶だ。



とにかく、

東京から岐阜、そしてはるばる関市までやって来て、一言で稽古が終わってしまった事が衝撃で、そして斬新だった。


ヤバい。

基本中の基本の、「腹式呼吸」が出来てないのだ。


この一言は手取り足取り教わるよりも、すごいパンチ力だった。


それから半年は、自分の中では「腹式呼吸」をテーマにとても濃密な時間を過ごしたと思う。

そして、藤川氏がこの一言で私を試してくれたような気がして嬉しかった。



藤川氏は若い頃に、宗家の人に音が小さい小さいと何度も言われたという。

それがいつの間にか言われなくなった。

そんな苦労をしないようにと、私に最初にそれを伝えたかったのだろうかとも思った。


それから、幾年か過ぎた。


年に二回は藤川氏の家を訪れ、さすがに何度も行くうちに慣れてそれほど緊張しなくても良くなった。


稽古はそっちのけで思い出話を聞いたり、昔の写真を見せてもらったり、一緒に近所にお昼御飯を食べに行ったり、スーパーのお弁当を食べたりした。


奥様に先立たれ独居老人ではあったが、家の中はとても綺麗に片付けられていた。


日当たりの良い縁側にテーブルと椅子があり、そこで尺八の資料などを見たりして過ごしたこともあった。お茶はいつも宝瓶と言われる取っ手のない急須で入れて頂いた。そんな急須を見たことのない私は、これが大人の嗜みなのだな…と思ったものだった。

私もいつかこの取っ手のない急須でお茶を嗜むことが夢である。



一番最初に貸してくれた本が、中野孝次著『清貧の思想』。藤川氏が言わんとすることが、書いてあったのだろう。私は若い頃から好んで貧乏生活をしていたので、この本を勧めてくれるなんて嬉しかった。内容はもっと深く、教養がないととてもじゃないけど理解できない本だ。

次に貸してくれた本が、今井宏泉著『素浪人 塚本竹甫』。
谷北無竹に跡継ぎと言われた人で、尺八と酒をこよなく愛した人だ。最近、塚本竹甫のご子息の門人に出会うことになり、これもまた何か縁を感じる本だった。二冊ともお返ししてから、東京の古本屋で同じ本を偶然見つけて、今、私の手元にある。



今井宏泉著『素浪人 塚本竹甫』には、
なんと坂口鉄心師のサインがあった。



藤川氏の方針は、

「自分でやれ」 

だった。



「聞くな。盗め。」


細かい事を聞くとこう言われた。



ご本人も、竹内史光師の演奏をカセットテープに録音し何度も聞いて練習したという。


1979年の発表会の時、

その時は『普化楽全国普及会』という組織の名前だった頃。

『虚無僧の尺八名曲 普化楽の夕べ』
1979年


藤川氏が「布袋軒鈴慕」を演奏したとき、竹内史光師が、


「自分で吹いとるかと思った」


と言われたそうだ。


藤川氏37才、史光師64才。


それから、「布袋軒鈴慕といえば藤川」、「藤川といえば布袋軒鈴慕」とまで言われるほどに藤川氏の十八番。私は毎回、藤川氏の布袋軒鈴慕を聞くのを楽しみにしていた。


本当に、藤川氏の鈴慕はいいのだ。


そしてこの曲だけは、藤川氏は私に丁寧に教えてくれた。



訪れるたびに何度も聞かされたのが、免状のこと。


藤川氏が若い時、仕立て屋の修行の為東京に滞在していた頃、琴古流竹友社に通っていた。


そこに、実に尺八の上手な先輩がいたという。

藤川氏はその人に、「あなたは中伝ですか、奥伝ですか?」と聞いたところ、その人は「いいえ、私は免状は持っておりません」と答えた。

藤川さんは驚いて何故か聞くと、その人は、

「私は出張や転勤などが多い仕事。いつ尺八が吹けなくなるかわかりません。もし奥伝をとったとしても、その実力を保持できる保障は無い。そんな無責任なことは出来ないので、免状は持たない事にしている」

と答えた。

藤川氏はそれに感銘して、自分もいらないと決め込んだそうな。


竹内史光師にも断ったそうですが、

「なんや、紙一枚あれば、ワシが筆でササッといたるわ」

と言われ、


「ここにあるのがそれや」☝️


というオチで、部屋の上に掲げられた額縁入りの免状を指差し、笑っていた。


免状だけ持っていても実力が伴わければただの紙切れである。

竹内史光師に似て、とても生真面目なところがある人だったと思う。



ずっと言われ続けたのが、


「センスを磨きなさい」


だった。


「人は生まれついてセンスを持っているものではない、センスは磨くもんや」


そして、美術の本や、自分で集めた蒔絵などを見せてくれて、このように他の芸術に目を向けなさいと最初に言われた。


いつぞやに、刀まで見せてくれた。

さすが関の生まれだけあり(関の人は皆持っているのか分かりませんが)藤川氏の前世は武士だったろうなと思わせるような雰囲気の人だった。


そして、いつも背筋をシャンと伸ばしている人だった。

ご職業は仕立て屋で、服装はいつも白いワイシャツにベスト。スラックスにきちんとベルトをしていた。


虚無僧尺八の会では、作務衣を着たりする人が多いが、藤川氏はピシッと洋装であったのも印象的でやはりトレードマークであった。


音のみを追求している姿勢は久松風陽を思わせる人だった。



その最後に藤川氏のご自宅で会った日のこと。


闘病中とは聞いていたが、尺八が全く吹けないと実際に聞くとやはりショックだった。


もう家の中での行動範囲も狭くなり、炬燵のある部屋のみで生活しているらしく、いつもより雑然としていてそれも心が傷んだ。


ご自身の癌が全身に転移したを写したレントゲン写真を見せてくれた。

その時に、藤川氏と私の誕生日9月22日が同じである事を知った。なんという偶然。


「もう会えんかもしれんで、これは形見や」といって露切りの石をもらった。わざわざ石工に削ってもらったものだとのこと。


その時も、

そんなこと言わんでくださいよ、

としか返す言葉も無く、もう会えないなんて全く実感はわかなかった。



そして近所のお食事処に行って、カキフライ定食を二人で食べた。

すごく美味しかった。

その、すごく美味しいカキフライを食べながら、藤川氏はいつもより真剣な調子で話をしてくれた事は忘れまい。


その時に雪舟の話をしてくれた。


水墨画の濃淡の四種が使い分ければ上手。六種が使い分けれれば名人。

雪舟は十種の濃淡を使い分けた。という話。


尺八も同じである。その音を聞分け、使い分ける事ができるような、感性を養いなさいということだ。

いくら立派な師匠についていても、自分自身がその音を理解できていなければ全く意味は無いし、

いくら良い尺八を持っていても、その尺八が出せる技倆がなければ無駄だ。

自分自身で探求しなさいということだ。



そして、バスが来る迄一緒にバスを待ち見送ってくれた。こういう別れは初めての経験で、本当に胸が傷んだ。



全国的には有名ではないけれど、地方にも素晴らしい名士がいる。

見出し画像の右寄りの真ん中にいる史光師の右隣りが藤川氏だ。まだまだご活躍の門下の方々も幾人かいるが、残念ながら鬼籍に入られた方もいる。

越後明暗寺の鈴慕や三谷の演奏が素晴らしかった史光師門下の岩田純光氏もこのコロナ禍の間に逝ってしまった。

本当に残念である。この場をかりてご冥福をお祈り致します🙏

史光師(左)藤川氏(右)
史光師も若々しい。


私の人生をとても充実したものにしてくださった藤川流光氏に、今一度感謝🙏


そして人生で一生「頭の上がらない、足を向けては寝られない」という人に出会えて、とても良かった。

藤川氏自身が、先生選びは大変や、間違えると大変なことになる。と言っていたのも今思うととても重要なのことだったと身にしみる。



本当にたくさん大事なことを教えていただきました。
心よりご冥福をお祈りいたします。


そして、藤川氏の逝去にあたり教えていただいた西田景光氏、服部示光氏にもこの場をお借りしてお礼申し上げます。


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇