歩く供養塔☆の話
最近、あちこちにある石塔やら石仏やらを調査していたら、自分もなんだか石塔やら石仏になったような気がしてきた。
時代錯誤も甚だしい格好で、江戸のかけらも無い真新しい街中に立っていると、虚無僧は石塔並みかも知れない。
ということで、
ワタクシ石塔です。
なんて気持ちで吹いていた。
この日は吉祥寺駅周辺エリア。
すると珍しくいつもより反応があった。
年齢層の幅も広く、若い人から年配の方まで。
供養塔パワーか。
何やら念でも出ていたのか。
明治の頃、宣教師であったウォルター・ウェストンは御岳山に登った時、病気治癒の為ご祈祷をしていた大勢の日本人を見て驚いたのと同時に、今に日本に近代化が訪れてきて、このような古い風習が跡形もなく消えてしまうであろうことを、残念な思いで見ていたと言うことが、彼の旅行記に書いてあった、ような記憶がある。
彼の言うように、日本は戦後めざましい進歩を遂げた結果、見ての通りの今の現状だ。
現代の人は、病気になったらご祈祷などしないですぐに病院へ行くでしょう。治らなかったら、違う病院へと行くでしょう。
ところが、意外と人はいざとなると神頼みなもので、
自分の例で言うと、
数年前、ウチの同居人が突然仕事を辞めてきて、その後全然就職先が見つからなかった時は、私は密かに毎日近所の神社にお参りに行ったものだった。
私も無職だったのだ。
せめて神様二人とも無職だけはご勘弁を・・・🙏
普段は鳥居の前を通り過ぎてしまっているくせにだ。
人は窮すると神や仏のことを思い出すのかも知れない。
虚無僧体験から言うと、
「私の娘が今入院しているんです!祈ってやってください」
と頼まれたことがある。
「友人の危篤に会えなかったんです。50年来の友人なんです」
と悲しみを告白されたりもした。
そうか、新興宗教は自ら出向いて行ってこういう人の心の隙間に入り込むんだな。
という事がよく分かった。
それを考えると、その辺にある石塔や供養塔は、ただ黙ってそこにいるだけで、仏心を引き出してくれる有難いものなのだ。
そう思うのは私だけかもしれないが。
私も、
移動式供養塔もしくは人間石塔にでもなった気持ちで尺八を吹き続けてみよう。
と、そんな境地(狂地)に至ったのでした…。
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