腐った豆腐を食す

今日の昼飯に食べた豆腐はきっと腐っていた。
俺の家には毎週水曜日に豆腐屋が来るので、木曜日あたりには必ず豆腐が食卓に並ぶ。今日は木曜、今日もカットされた木綿豆腐が出て、ネギも鰹節もなく、そのまま醤油だけかけて食べた。口に入れた瞬間に、ああ、たぶんイカれてるなこれ、と思った。明らかに風味がヤバイ。しかし吐き出すわけにもいかないので、普通に飲み込んだ。二口目を食べてみて、それは確信に変わった。後味さえイカれた風味が鼻に抜ける。俺は鼻で息を吸うのをやめて、お茶を飲んだ。
その後、三分の一くらい残った豆腐を見て、俺は食うか否か考え込んでしまった。夏場の食中毒はシャレにならん。俺はこれでも調理師免許を持っているので、理論的にもどうヤバイか知っている。しかし、腐っていると騒ぎ立てることは簡単であるが、わりと幸先のいいスタートで二口も食ってしまったため、ここにきて腐っているなどと言い出すと、豆腐サイドもびっくりするのではないか、俺はそれを恐れた。
俺はさらに考えて、あることに気づいた。そもそも豆腐であると。そもそもが字面からして、豆が腐っているのである。ということは豆腐サイドは、「私、腐ってますのよ」のように前置きしているのである。現代日本において省略されているものの、本来は豆腐を食う前、「私、腐ってますのよ」からの「いえいえかまわんよ」というやりとりが、少なくとも中国より豆腐が伝搬した当初はあったはずではないか。そもそも、現代においても、豆腐は、豆腐という名称でもって俺たちにそれを教えてくれているのである。それなのに腐っているという理由で目の前の豆腐を残すということは、例えるなら、「俺の着てた革ジャンだけど、もう着ないからあげるよ」と言われて、素直にもらっておきながら、「なんだよ中古じゃねえかよ!」と憤るようなものである。正気ではない。また、「つまらないものですが」と言われた物を素直にもらっておいて、「キャノーラ油って………あのさあ、本当につまらねえな!」と憤るようなものである。これも正気ではない上に、道徳や常識がない。また、「こんなおばさんでいいの?」と言われて、「関係ありません、私は貴方が好きなんです」と答えておいて、営みの途中で、「本当にババアだな! 顔はともかく首のシワ! 膝小僧の黒ずみ!」などと憤って騒ぎ立て、恥だけかかせて宿を出るようなものである。これは一人の女の尊厳を傷つけることに他ならない最低の行為である。
よくよく考えると、豆腐は親切である。前置きしているのだから。チーズは自分のことを乾酪と言っても、乳腐、とは言わない。ワインは自分のことを葡萄酒とは言っても、葡萄腐、とは言わない。納豆に関しては、なんだお前、なにを涼しい顔してねばついてんのやら、どちらかと言うとお前のほうが豆腐じゃねえか、逆に豆腐の方が型に納めてる感じするわ。その点、豆腐は謙虚で、慎ましい、奥ゆかしい、惚れた!
以上の理由をもって、俺は目の前の豆腐を食うことを決意した。もう迷いはなかった。三口目を食べる、やっぱり不味い! イカれた臭いがする。ああ、俺が豆腐を豆冨としていたらどれだけよかったことだろう。作家の泉鏡花は豆腐を、豆府、としていたらしいが、俺も泉鏡花のマネをしていたらどれだけよかったことだろう。そんなことを考えながら、俺は豆腐を完食した。
非常に不味かった。お茶で流し込んで、咀嚼することはなかった。それでも俺は満足している。惚れた弱みである。俺には木綿豆腐がレースのワンピースのように見えたのだ。もし、あいつが生まれ変わったら、日傘などさして、蓮華畑でも歩きたいものである。
俺は今、ウンコをしながらこの文章を書いている。腹が痛くなったのである。これに関して、あの豆腐が腐っていたからこうなっているのかはわからない。おそらくであるが、腐っていると認識した上で食べたことが、俺に精神的な影響を及ぼし、ひいては身体的なこの下痢までひきおこしたものと考える。豆腐は悪くない。
俺はウォシュレットをしながら、この豆腐を売りに来る豆腐屋のワゴンには、おとうふ、と書いてあるのを思い出した。そもそも字面も腐ってはいなかったのである。

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