オリジナル小説 ふたりぼっち#5
灰村は、一点をじっと見つめていました。そこには何もありません。では、灰村はいったい何を見ているのでしょうか。あまりにも灰村が凝視しているので、見かねて、伊織は灰村の名を呼びました。何度か呼びかけて振り向いた灰村は、急に現実に戻ってきたような、少し驚いた顔をしていました。何、と言う声も、やはり驚いた人間のものでした。
「灰村、あなた何を見ていたの?」
「何も」
「嘘」
「……」
「灰村は本当に嘘をつくのが下手。明らかに何かを隠してる」
灰村は諦めたように、溜息をつきました。
「幻覚見てたんだよ」
「幻覚?」
「そう。赤い和傘が、ずっとくるくるくるくる回ってんの」
「どうしてそれが幻覚なの?」
「どうしてだって? 伊織にも見えてたの?」
灰村は訝しみました。
「見えてなかったよ。でも、明日には見えるかもしれない。だって灰村には見えてるんでしょう。それなら私にも見えるよ」
一瞬、伊織が何を言っているのか理解に苦しみました。しかし直後に、伊織の言ってることを理解しました。
「そうだね、伊織にも見えるようになるだろうね。今も、和傘が回ってるんだよ」「早く見えるようになりたいな。灰村とおんなじものを、私も見ていたい」
二人は顔を見合わせて、笑いました。
長かった梅雨が明けました。
「あなたの嫌いな夏が来たわ」
伊織が口ずさみました。
「灼熱地獄の夏。あかるい夏。隅々まで照り付ける夏。夏」
灰村が、伊織の口の中に指を突っ込みました。
「夏が嫌いなのは僕だけじゃないでしょ」
人差し指と中指で、伊織の肉付きの良い舌を挟みます。
「それ以上言ったら、ちょん切るよ」
伊織の瞳孔が、ふわっと広がりました。喜んでいるのです。と同時に、灰村が伊織の舌を切るなんてしないことも、分かりきっていました。
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